埔里(ほり)及び中部東路の花蓮の情勢を述べる。その文に曰く、
「此時不即為患者、各国互相観望、不肯発端。久則必為外人所拠。心腹既為所拠、沿
辺・海口交午相通、患有不可勝言者矣。」
(この時即(すなは)ち患とならざるは、各国互ひに相ひ観望し、端を発(はつ)する
を肯(がへ)んぜざるなり。久しければ則ち必ず外人の拠(よ)る所とならん。心腹既
に拠る所となれば、沿辺(えんぺん)・海口、交午に相通じ、患あげて言ふべからざる
者有り)
と。大意は下の通り。「奇来(きらい)(花蓮)及び埔里など中部に対して、列強各国
は形勢を観望し、兵端を開いてゐない。心腹(中部)が列強に占領されれば、沿辺(領土
線)から東海岸まで交互に通じ合って害をなすだらう」と。沿辺の外として花蓮の情勢を
述べるのだから、国外である。
◆同一史料で領土外
「全台図説」は更に国内の記述部分でも、
「将卑南以北各社、全行収隸版図。」
(卑南(ひなん)以北の各社をとりて、全行して版図(はんと)に収隸(しうれい)せよ)
との建議を述べる。卑南とは台湾島の東南部である。その北の各社とは、花蓮の各村落
を指す。領土編入の建議であるから、花蓮はまだ領土ではない。
このやうに清国の統治は未だ台湾全土に及ばず、奇来を含む東部中路は国外であったこ
とが、馬英九氏の同一史料で明白である。そこに記載する釣魚台も、国外情報である。馬
英九(ばえいきう)先生には大いに感謝せねばなるまい。
史実も重要だが、それよりも重要なのは、釣魚台を記録する史料自身が、花蓮を国外扱
(あつか)ひで記載することである。だからこそ、同個所に附記される釣魚台も国外扱ひ
と分かる。花蓮が国外であった史実そのものは補説に過ぎない。
▼馬英九史料は日本派兵の前年
馬英九氏は「全台図説」を西暦1872年の成立とした。根拠は著者の周懋琦(しうぼう
き)が台湾府知事となったのがこの年なるがゆゑだらう。しかし篇中に曰く、
「現在六社之中多設立教堂」
(現在六社のうちに多く教堂を設立す)
と。六社とは、台湾中部の埔里地域である。教堂とはキリスト教の教会堂である。埔里
に多数の教会堂(長老派教会)が建てられたのは西暦1873年(平成19年の張珣(ちゃうじ
ゅん)氏・姚嘉音(えうかいん)氏・林文徳の論文などによる)であるから、「全台図
説」の成立はこの年以後である。
また全篇の内容は、前述の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(連載第3回)よりも前の地
方官制に本づいて書かれてをり、西暦1875年より以前の著作と分かる。しかも前述のやう
に兵端は開かれてゐないのだから、西暦1874年5月に日本が派兵するより以前である。
更に篇中に「本年四月(陰暦)に外人が埔里で救災活動をしてゐる」と述べるので、成
立の月度(げつど)は陽暦6月から12月の間である。台湾キリスト教史にとっても重要な記
述だらう。
以上により、成立年月は西暦1873年6月から12月の間と推定できる。この時、花蓮はなほ
清国の国外である。
(長崎純心大准教授)