(ぜんたいづせつ)」に至る釣魚台(尖閣)情報も、琉球人が提供した可能性が極めて高
い。清国人(しんこくじん)は使節として琉球に渡る際に情報を得て、それを地誌の編纂
者が採用したと推測するのが最も自然である。
そもそも尖閣の帆船航路は季節風を利用せねばならず、無人島で折り返すことはできな
い。西から来れば、必ず琉球まで進んで季節風の移ろひを待つ。尖閣を宜蘭領域の限界線
として確認し、そのまま台湾へと折り返すといふのは空想に過ぎない。
◆花蓮は領土外か
チャイナ側主張の宜蘭(ぎらん)には、釣魚台が属してゐなかったこと前述(連載第2
回)の通りである。では釣魚台とともに記載される花蓮は確かに国外なのか。念のため台
湾史の通説を概観しておかう。
清国は康煕22(西暦1683)年に台湾島の西側から上陸して、今の台南(たいなん)附近
を占領し、台湾島の西半分を侵略し始めた。19世紀初頭には東側北部の宜蘭にまで領土を
ひろげたが、東側中部の花蓮は最も遅くまで国外であった。
明治7年(西暦1874年)5月に至り、日本の西郷従道(つぐみち)軍は東側南部の清国領
外「牡丹社」地域に遠征した。高校教科書に「台湾出兵」として載る事件である。清国領
外であるから清国との戦闘は無く、先住民との戦闘が行なはれた。
このとき清国が台湾の東南部を「化外(くわがい)」即ち国外と位置づけたことが有名
で、清国の文書「籌弁(ちうべん)夷務(いむ)始末」内の間接的言説中に見えるほか、
羅惇融(らとんゆう)「中日兵事本末」などの野史(やし)に見える。化外の地は台湾全
土だと勘違ひされがちだが、主に東部だけである。日本の研究者の間では、化外であった
史実について清国に贔屓(ひいき)する政治的論調が多いので注意を要する。
出兵後、同年10月に日清両国は条約を結び、日本はこれ以後台湾の東南部を清国領土と
することを認めた。しかし清国はまだ実効統治を始めたわけではなかった。
焦った清国は、翌年(西暦1875年)に至り、東南部のみならず花蓮まで清国の行政区画
に編入することを決定した。そして「開山撫蕃(かいさんぶばん)」といふ武力侵攻を経
て、ほぼ西暦1878年に花蓮の大部分を清国統治下に入れた。その最後の「カリャワン戦役
(せんえき)」は、民族浄化の惨劇(さんげき)として近年の台湾史研究の一焦点となっ
てゐるらしい。多数の先住民が殺され、残虐な酷刑も執行された。
「開山撫蕃」以前にも少数の清国人が花蓮に侵殖(しんしょく)してゐたが、違法とさ
れてゐた。清国は台湾に於ける国外入殖を禁じてをり、解禁したのは開山撫蕃と同じ西暦
1875年である。
このやうに台湾史の大事を概観すれば、馬英九(ばえいきう)氏が「全台図説」の成立
年とする西暦1872年には、花蓮が清国の国外だったことが容易に分かる。
◆未知の尖閣を防衞する中華思想
釣魚台は宜蘭に属せず、花蓮も国外であった。しかし西暦1878年前後に花蓮が清国の有
となった後も、釣魚台まで併せて清国となったわけではない。釣魚台は花蓮とともに記載
されただけであって、花蓮に属してゐたわけではない。
その一証左(しょうさ)となるのが、「開山撫蕃」とともに釣魚台を記述した史料であ
る。清国の方濬頤(しゅんい)著「台湾地勢番情(ちせいばんじゃう)紀略」に曰く、
「鷄籠山陰有釣魚嶼者、舟可泊、是宜設防。」
(鷄籠(けいろう)山陰に釣魚嶼(てうぎょしょ)なる者有り、舟泊(はく)すべし、
これ宜(よろ)しく防を設くべし)
と。陰とは北である。この著作は「開山撫蕃」即ち台湾東部侵攻による領土編入の史事
を概論する。
その中で「防を設ける」とは、同じく侵攻して領土に編入することを指す。「宜しく設
くべし」とは未来の空想である。されば西暦1875年の開山撫蕃の後にも、釣魚台は領土に
編入されてゐなかったことが分かる。しかも「釣魚台なる者有り」といふのだから尖閣を
ほとんど知らない。
知りもしないのに防衞を大言するのが中華思想であり、この種の大言は到る処(とこ
ろ)に見られる。「普天(ふてん)の下、王土にあらざるなし」といふ古語も有り、全世
界の無主地は本来なら自国領土だと勘違ひしてゐる。
そんな中華思想の基準は、聖徳太子時代からつづくユーラシア東半のインド文明圏諸国
と決して相容れないし、況(いはん)や近代国際公法に於いてをや。日本は断じてこの基
準を受け容(い)れてはならない。
(長崎純心大准教授)