氏の「宣伝工作に負けてゐる日本」と題する注目すべき論説が載った。八木氏は、チャイ
ナ側が盜まれた失地恢復の物語を虚構して世界に訴へてをり、日本側としても領有を説得
力をもって説明できる「物語」が必要だ、と述べる。我が意を得たり、それは琉球人の物
語である。漢文史料の中にその痕跡が多々有ることを世に訴へたいと私は思った。
▼琉球人の物語
連載第5回まで使用した史料が全て清国の著述なので、何か狐につままれた気がする人も
あらう。チャイナ側も、チャイナ人が記録したからチャイナの物だと主張してゐる。
尖閣の漢文史料はほとんどみな明国及び清国側の著述である。尖閣は日本と琉球との間
の島ではなく、琉球と明清との間の島であった。だから弱小琉球にほとんど記録が無く、
明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。
しかし中身は全く逆である。琉球人が航路上で提供した情報を、明国人及び清国人が記
録したのがこれら史料である。土着の案内者と、外から訪れた記録者。アメリカ・インデ
ィアンの提供情報を英語で記録したのと似た状況である。
但し釣魚列島の名は、東アジア共通の漢文名であって、命名者は不明である。アメリカ
先住民の土地に英語で命名したのとは異なり、琉球人自身が漢文で命名してゐた可能性も
高い。それが東アジアであたり前なのだ。
▼陳侃(ちんかん)の三喜
尖閣を熟知するのは琉球人であった。その代表が、最古の記録、西暦1534年の「陳侃
(ちんかん)の三喜」である。
明国の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏(おそ)れた。そこに琉
球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだ。一喜である。次に琉球から迎接船
が入港したので、先導船になると喜んだ。二喜である。次に迎接船が針路役及び水夫を派
遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出た。三喜である。
明らかに琉球人のお蔭で尖閣を記録できたと分かる。琉球人のもてなしの心が記録から
溢れてくる。以後の歴代記録でも常に琉球人に頼り切りだった痕跡が、そこかしこに見ら
れる。我々は「陳侃三喜」を四字成語としてひろめて行きたいものだ。
▼先住民差別
また陳侃の時及び以後の渡航では、琉球の船は低速であり、高速の使節船から落後した
ことが幾度も記録される。造船・操船の技術に劣る琉球人が尖閣を先に見つけた筈(は
ず)がないと、チャイナ側は主張する。確かに日本とチャイナとの間の小国琉球は、ある
時期まで技術的に優位ではなかった。しかしそれを以て尖閣が我が物だと言ひ張るのは、
技術的優位の西洋人が、土地を熟知する先住民を軽視するのと同じである。現地の熟知度
とは別問題であり、これもまた先住民差別である。
記録と技術の二つの優位による差別を、日本は世界に知らしめるべきである。今後我々
がこの差別と戦ってゆく物語は、彼らのやうな虚構ではない。真に説得力ありと私は考へ
る。
▼琉球から日本へ
明治日本の領有まで、尖閣前史の記録をたどれば、それは文化的琉球圏にして法的無主
地の歴史である。チャイナ側の領有を感じさせる文化的な影すらも無い。さらに遡れば八
重山文化圏だった可能性も高いが、惜しいことに記録が無い。発掘すれば古代八重山人の
骨が出土するかも知れない。
琉球文化圏を強調すると、日本領有の否定に繋がらないかと憂慮する人も有るかも知れ
ない。しかし我々は、琉球が縄文時代からの長い歴史を経て、徳川初期に日本に併合され
て現在に至る事実を、否定する必要は全く無い。まして中華人民共和国人になりたいとい
ふ沖縄人もほとんど存在しないだらう。沖縄人を先住民族に位置づけて、国家への帰属を
搖るがさんとする陰謀家に対しては、逆に先住民族自身の利益として尖閣を守り、他国の
侵略と戦ふ意志を示す好機会である。
本稿で使用した正かなづかひ及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行
の「かなづかひ」誌上に掲載してゐる。「國語を考へる國會議員懇談會」(國語議聯)と
協力する結社である。(終)
(長崎純心大准教授)