によれば、馬英九総統は1872年(明治5年)の成立著作「全台図説(ぜんたいづせつ)」
(清・周懋琦(しうぼうき)著)の中から、「釣魚台」(今の尖閣諸島・魚釣島)の記述
を発見したといふ。記述個所に曰く、
「山後大洋有嶼。名釣魚台。可泊巨舟十余艘。崇爻山下可進三板船。」
(山後の大洋に嶼(しま)あり、釣魚台と名づけらる。巨舟十余艘(よそう)を泊すべ
し。崇爻山(すうかうさん)の下は三板(さんぱん)船を進むべし)
と。「山後」とは台湾島の東半分である。崇爻は今の花蓮である。三板船は小船であ
る。文意は、「台湾東側の大海に島が有り、島名は釣魚台といふ。大船十艘あまりが碇泊
可能である。花蓮の海岸には小船を入れられる」となる。
◆NYタイムズにも
馬英九氏は釣魚台を題材に博士論文を書いたほどのマニアで、漢文史料をめくってゐた
時にこの記述に出逢ったといふ。早速ニュースは台湾だけでなくチャイナのインターネッ
トを馳せ巡った。数日後には台湾外交部の公式ネットページにも、領有史料の一つとして
掲載された。
少し遅れてニューヨークタイムズ紙の著名記者、ニコラス・クリストフ氏のブログに台
湾の国際法学者邵漢儀氏の論文が掲載され、「全台図説」のこの記述も取り上げられた。
クリストフ記者はチャイナ側の主張を支持してゐる。それに対し駐ニューヨーク日本領事
館の川村総領事が反論を投稿したことは、ひろく報じられたのでご記憶だらうか。しかし
川村氏は漢文史料に論及しなかった。
◆日本領有の直前に
この記述そのものは他史料にも屡見するので、私はまた同じものが一つ増えただけのこ
とと思った。新発見といふのも疑はしく、誰かが以前に論及してゐた可能性もある。とは
言へ史料が成立したといふ西暦1872年は、日本が尖閣を領有した西暦1895年から僅か23年
前であり、国際法上で決定的な意味を持つかも知れない。よって念のため原書をしらべて
みることにした。
その結果、何のことはない、「全台図説」のこの個所は「奇来」(今の花蓮)の段の中
で述べられてゐた。奇来は清国の領外であるから、釣魚台も国外としての記載なのである。
(本連載は、11月5日八重山日報記事への解説です。石井氏の希望で旧仮名使いにしてあり
ます)
(長崎純心大准教授)