「葛瑪蘭(カバラン)庁志」にも見える。私は他と同じやうなものと思って注意しなかっ
たのだが、馬英九総統の一件もあってこちらの原書もしらべてみた。
するとこれまた何のことはない、釣魚台(尖閣)は「蘭界外」といふ一段に記載され、
蘭(宜蘭)の境外すなはち清国外に釣魚台が在ったことを示してゐる。チャイナ側はこれ
まで釣魚台が宜蘭に属すると公式に主張してをり、その根拠の一つがこの書なのだが、よ
くみると逆に主張を全否定する史料なのである。
「蘭界外」の記述を見つけてから、念のためインターネットを検索したところ、今年9月
10日に台湾の著名人・潘建志氏のブログ「BILLY・PAN的部落格」で既に発表され
てゐた。私は第一発見者になり損ねたのだった。
宜蘭(葛瑪蘭)の領域はどこからどこまでか。同じ「葛瑪蘭庁志」内の記述で確認して
置かう。巻一「疆域」(領域)の段に曰く、
「東北至[三水偏に卯]鼻山、水程九十五里。……東南至蘇澳過山大南澳界、八十里。」
(東北のかた[三水偏に卯]鼻山に至る、水程九十五里なり。……東南のかた蘇澳より山
を過ぎたる大南澳の界に至る、八十里なり)
と。[三水偏に卯]鼻山(ぼうびさん)は宜蘭領域の東北端の岬である。蘇澳(そおう)
は宜蘭の東南端の臨海平原である。大南澳は平原から山を越えて更に最南端の村である。
釣魚台は宜蘭の東北方向170キロメートル先に在るから、明白に宜蘭の界外である。この記
述は潘建志氏も既に引用してゐる。
◆未知の領土外情報の集まり
「蘭界外」の一段には、山後(台湾東部)の奇来(花蓮)を中心とする先住民の情報が
集められてゐる。情報源は道光辛卯(西暦1831)年の福建人蔡某の報告及び、それ以前の
地誌諸本の零砕(れいさい)記述である。地誌からの情報では、山後の先住民の一部が毎
年「社餉」(貢物)を清国にもたらしたとする。蔡某は名前も記録されないから、山後の
先住民の中で邪利を貪った民間通事(仲買人)か、もしくは通事を介して先住民と交易し
た社商(清国指定商人)の類だらう。仮に社商だとしても、その情報源は矢張り通事であ
り、社商は直接先住民の中まで這入らない。
念のため社餉の実際を粗覧しよう。古典とされる「裨海紀遊」などによれば、一部の先
住民が狩猟で得た鹿などを、通事が不平等交易でしぼり取り、社餉として清国の社商に転
売し、社商が地方政府に納めたといふ。清国側は税に類する貢物と位置づけるが、かりに
貢物を定期的に納めたとしても、それは近隣の朝貢国と同じことに過ぎない。実際には先
住民側にとっては民間通事との不平等交易であって、仲買を経て間接的に清国に転売され
たのだから、貢でも朝でもない。朝貢国よりも更に疎遠である。しかも交易したのは先住
民のうち所謂「化蕃」(貢納する先住民)に過ぎない。
「葛瑪蘭庁志」の記録は、道光年間に至ってなほこの種の民間通事の情報に頼るほどだ
から、清国が山後を統治してゐなかったことをよく示す。されば未知の国外の情報を集め
たのがこの一段なのである。
▼領土外情報の末尾に釣魚台
これら国外情報の末尾に、「重修台湾県志」といふ地誌から釣魚台及び花蓮の記述が引
用される。馬英九氏発見の史料とほぼ同文である。そして引用文の後に曰く、
「竟有至其地、可知也。」
(竟に其の地に至る有りと知るべきなり)
と。「竟」は古義で「つひに」と訓ずるが、ここではチャイナ語習が混入して驚きを表
はす語だらう。句意は「驚くべきことにその地に到達した人がゐると分かる」となる。到
達をわざわざ述べるのだから、花蓮も釣魚台も国内ではないとの認識を看て取ることがで
きる。
(長崎純心大准教授)