http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16549写真:台北市長時代の家族写真。左から李憲文さん、長女の李安娜さん、李登輝さん、奥様の曾文 恵さん、次女の李安妮さん
2014年9月、李登輝は関西国際空港に降り立った。2007年から3年連続で訪日したものの、そこから5年間は機会がなかった。というよりは「奥の細道」散策の後半を辿るとか、台湾少年工の里帰り記念式典に出席するなど、計画が進められたこともあったのだが、体調を崩したりして頓挫してしまったのだ。
このときの訪日では、初めて実現したことがあった。愛娘二人を連れての日本行きである。1945(昭和20)年、台湾は日本の統治下を離れた。李登輝も京都帝国大学での学業半ばで台湾に戻ることを余儀なくされたのである。その後、台湾大学に編入学し、農業経済学者としての道を歩み始めたことで、視察や研究の一環で日本を何度か訪れたことはあった。
一人息子の李憲文が綴った文章にも、日本へ出張した父親が「最新のグラスファイバーの釣り竿を買ってきてくれる約束になっていた。タラップを降りてきた父の手に細長い包み紙があるのを見て、預け荷物にせず、自らの手で息子へのお土産を持ってきた父の愛情を感じた」と書かれている。
しかし、家族を連れて日本へ旅行に行く機会は訪れなかった。現在でもそうだが、台湾の現職総統は日本訪問が不可能だ。そのため、総統に就任する前、最後に日本を訪問したのは副総統だった1985年のこと。国交が無いながらも関係が良好だった南米のウルグアイで大統領就任式典に出席した帰途、東京でトランジットしたのだった。
余談だが、このとき、李登輝は初めて中嶋嶺雄・東京外国語大学教授(当時)と会っている。中嶋が書いた『北京烈烈―文化大革命とは何であったか』などの書籍を読んだ李登輝が、「これほど中国を鋭く観察している学者が日本にいるのか」と感嘆し、面会を申し入れたという。
自民党議員との晩餐会のあと、ホテルオークラの一室で会った二人は深夜まで話し込み、中嶋は後に日本における李登輝の最も親しい友人のひとりとして「アジアン・オープン・フォーラム」を開催したり、2007年の「奥の細道」散策をお膳立てするなどして李登輝の対日交流を支えた。
◆東日本大震災をきっかけに日本が変わった
話を戻そう。2014年の訪日は「日本李登輝友の会」による招請だった。大阪と東京での2度の講演に加え、李登輝自身にとって初めて北海道の地を踏むこともスケジュールに組み込まれた。李登輝夫妻に同行したのは、長女の李安娜と次女の李安妮だった。
講演で李登輝は「本日、会場には、家内と二人の娘も来ております。日本へ行くことを決めたとき、娘たちから『これほど日本と縁の深い父親なのに、一緒に日本へ行ったことが一度もない』ということで、91歳になって初めて娘たちを連れて日本へ参ったわけです」と話し、立ち上がって挨拶する家族に会場からも大きな拍手が贈られた。
翌年7月、国会議員会館での講演を要請された李登輝は再び東京へ赴く。やはり長女と次女夫妻、孫娘の李坤儀らを引き連れての訪日だった。このときは、台湾の総統として歴史上初めて日本の国会においての講演が実現したのだった。
1972年の国交断絶以来、日本は幾度となく中国におもねり、台湾を軽んじる場面があった。李登輝自身、総統退任直後は訪日ビザが発給されず「日本外務省の肝っ玉はネズミより小さい」と不満を顕にしたことさえあったのだ。
しかし、日本は変わりつつあった。正式な外交関係はないものの、台湾を中国とは別個の存在として尊重し、中国に対して過度に配慮することは世論が許さない空気が生まれていたのだ。
ここでは多くを書かないが、それには2011年の東日本大震災で台湾から有形無形の大きな支援が贈られたこと、それがネットを通じて広く知られたこと、中国寄りのメディアに対しやはりネット上で批判的な声が大きくなったことなどが挙げられるだろう。
このとき、李登輝の胸中には、台湾人の総統が日本の国会で講演する時代がやっと来た、という感慨と同時に、そのハレの場に家族を伴いたいという誇りのようなものがあったのかもしれない。
◆機内で垣間見た父娘の会話
前年に続き、このときの訪日でも、島一範・全日空台北支店長(当時)をはじめとするスタッフの方に、フライトのみならず空港でのハンドリングや荷物の対応など大変お世話になっていた。東京へ向けて飛行する全日空機内から夕暮れの富士山の姿が見えた。
李登輝は次女の安妮を呼び、窓の向こうを見やりながら娘と話しているのが見える。あまりにも親密な父娘の会話なので、私は遠慮して近づかなかったが、窓の暗さを調節する機能について娘が父に説明している会話が聞こえてきた。このときの全日空の機材は窓のシェードを下ろすタイプではなく、電子制御で窓の暗さを調節する当時最新のものだったからだ。90歳を超えても、新しい技術に高い関心を寄せる李登輝らしい父娘の会話である。
残念ながらこのときは、曽文恵夫人は直前になって体調を崩してしまったため同行出来なかったが、女性ばかり家族水入らずで東京と宮城県を訪問した訪日は大成功をおさめている。
◆李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか
李登輝夫妻ともに、母語は日本語といって差し支えないだろう。有名なフレーズだが、李登輝はたびたび「私は22歳まで日本人だった」と言う。それは裏を返せば、李登輝や曽文恵夫人の中国語はその年齢になってから学び始めた言語だということだ。
現役総統の時代、李登輝が話す中国語をメディアはたびたび批判した。当時のことを、同じ日本語世代の父親を持つ映画監督の呉念真は次のように語っている。
「李登輝が総統になって間もなく、記者を務める私の多くの外省人の友人たちは新聞でこう言い始めました。『李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか』と。
それは彼の文法が北京語の文法とはだいぶかけ離れていたからです。たとえば、先に話すべきところを後にし、後にしゃべるべきところを先にするといった具合です。そのため記者らは毎日、『北京語がどうしてこうなるんだ』と罵ったわけです。
そのとき私は突然わかったのです。『なるほど、私の義理の父がしゃべっている北京語も全く同じだ』と。義理の父は早稲田卒ですが、北京語はめちゃくちゃな表現がほとんどです。それは日本語が教育上の言語で、母語が台湾語である彼らにとって、北京語は外来語だからです。
ゆえに李登輝は記者から北京語で質問されると、必ずそれを日本語に訳し、日本語で質問の意味を理解してから、日本語で回答を考え、そしてそれを北京語に訳して返答していたのです。
(中略)若い外省人の記者らは、彼らの歴史的背景に立ち入ってそれを理解したことがないわけです。彼らは、この人たちが生まれてからずっと日本教育を受けたということを見逃していました。一夜にして中国人にならなければならなかったことを見逃していました」(2005年、呉氏が日本で行った講演から)。
22、3歳から中国語を習い始めた、ということは私と似たり寄ったりである。仕事でもよく顔を合わせる総統SPのひとりに言われたことがある。
「おまえの中国語はラオパン(李登輝総統のこと)の中国語に良く似てる。なんだか外国人が話すような表現がしょっちゅう出てくる」
よくよく尋ねてみると、意味は通じるが、語順が違ったりして、なんとなく台湾人っぽくない表現がところどころに出てくるそうだ。そうは言っても、私も李登輝も、生まれながらではなく後天的に学んだ言語なのだから仕方がない。
◆なぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか
そんな李登輝夫妻だが、実は二人の娘は日本語が話せるとか、日本留学をしたことはない。もちろん、多少の日本語は解するが、台湾の知識人の水準からいえば標準レベルだと思う。2014年の訪日時、同行した台湾メディアが「それぞれの日本語力は?」と姉妹に聞いた。姉の安娜が「小さい頃から、家庭内で両親の日本語はよく耳にしていたから、習ったことはなくても3割くらいは分かる」と答えたのに対し、妹の安妮は「聞く力は20%」くらい、と答えている。
そう聞くと、私でなくとも、NHKニュースを見て、『文藝春秋』を愛読するような夫妻の子どもたちが、なぜ誰も日本語が使えたり、日本へ留学したりすることがなかったのか、と疑問に思うだろう。
以前、一度か二度、世間話のついでに「どうしてお子さん方に日本語を学ばせるとか日本へ留学させるということを考えなかったのですか」と李登輝に尋ねたことがある。
ちょっと困ったような笑顔で李登輝は「子どもたちが何を勉強しようか、うちは自由なんだ。親がいくら日本との関わりが深いといってもそれを子どもたちに強制することはなかったよ。それだけのことだ」と、いつも多弁な李登輝にしては言葉少なに答えたのが却って印象的だった。
これは私の推測だが、この答えの半分は正解で、もう半分の表に出さない答えがあるのではないかと思う。子供の自由な選択に任せる一方で、やはり台湾の戦後に暗い影を落とした「白色恐怖」が無意識のうちに李家から日本を遠ざけていたのではあるまいか。
当時の台湾では日本語はご法度であった。戦後に始まった日本語禁止令が、80年代後半に解禁になるまで、日本語を公の場で話すことはもちろん、観光客などが日本語の新聞や雑誌、書籍を台湾へ持ち込むことも禁止されていた。ましてや日本統治時代、帝国陸軍少尉として戦った李登輝は「スネに傷あり」の身分なのだ。
子どもたちの自主性を尊重するという両親の教育方針と、日本語を学んだり使ったりすることで、子どもたちの身に災難が降りかかることを回避しようという意識が、知らぬ間に働いていたのではないだろうか。
余談だが、李登輝夫妻の子どもたちが学生生活を送っていた時代、台湾では大学で日本語を学べるところは限られていた。私立の文化大学や淡江大学に「東方語言学科」という名で、あたかも世を憚るように設置されていた程度だった。国立の台湾大学に初めて日本語学科が開設されたのは、民主化後の1994年のことである。
実際、父親の李登輝自身でさえ、戦後の二度の留学はアメリカだった。修士課程を学んだのはアイオワ州立大学だったし、ロックフェラー財団の支援で博士号を取得したのもコーネル大学だった。このときのことを李登輝は「二度のアメリカ留学は『実務的な訓練だった』」と語っている。これは精神的な基礎を形作ったのは日本教育であり、戦後の米国留学は純粋な研究面での教育だったことを李登輝自身も認識していることを示唆しているのではなかろうか。
自主性を重んじられ、自分の学びたいものを尊重してくれる両親のもと、娘たちはそれぞれ英米での教育を選択した。姉の安娜は現在、台中でアメリカンスクールの理事長として切り盛りしているし、妹の安妮は英ニューキャッスル大学で社会政策の博士号を取得した。現在はシンクタンクの研究者として勤務する一方、政治の世界にも携わるなど、父親と同じような道を歩んでいるのは妹のほうといえるだろうか。
◆32歳の若さで亡くなった李登輝の長男
最後に、李登輝夫妻の最愛の息子、李憲文についても触れておかなければならないだろう。憲文はきょうだいの一番上であり、唯一の息子だった。長じた二人の妹たちがあまり日本語を解さないのに対し、憲文はかなり日本語を身につけていたようだ。文化大学を卒業し、新聞記者となった傍ら、日本への旅行で見つけた『権力複合態の理論 : 少数者支配と多数者支配』の中国語版を翻訳出版している。
憲文は同級生と結婚した3年後、1982年にガンで32歳の若さで亡くなっている。一人娘の坤儀はまだ7ヶ月だった。当時、省主席だった李登輝は、息子の亡骸をストレッチャーに乗せると「冷たいだろうから」と、自ら抱いて運んだという。
息子が闘病生活を送っていたものの、父李登輝は省主席としての任務も全うしなければならない。特に、答弁では何人もの省議員から突き上げを喰らう激務であった。後年、週刊誌の報道で「当時、少しでも息子のそばにいてやりたい李登輝に対し、一部の議員が嫌がらせのためにいつまでも質問をやめないことがあった」とも報じられた。このことについても李登輝は「もう終わったことだ」と答えなかったという。
そばにいる私たちでも、李登輝夫妻に亡き息子のことを尋ねるのは憚られる。ときおり、李登輝自ら、来客に対して「鼻腔ガンだった。今だったら完治させられるだろうけど、当時の医学では太刀打ちできなかった」などと話すのみだ。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、金美齢事務所の秘書として活動。2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。