香港での抗議活動が続いている。香港域内で検挙された刑事事件の容疑者(外国人の場合も含む)を中国へ移送して裁くことを可能にする「逃犯条例」(容疑者引渡条例)の改正に反対する市民の抗議活動だ。すでに林鄭月娥・行政長官は「改正案は死んだ」などと発言して、事実上の撤回を表明しているが、香港市民が求めているのは「完全撤廃」だ。これは中国人の「口先だけならなんとでも言える」習性を熟知している彼らだからこその行動だろう。
抗議活動を取り締まる当局側の動きも過激化している。催涙弾やゴム弾はもはや恒常的に使用されている。白や黒のTシャツを着た集団に、デモ参加者のみならず、地下鉄に乗車しているだけの市民が襲われたりと、不透明な部分も多い。
そして8月12日には、デモ参加者が香港国際空港へなだれ込んだというニュースが飛び込んできた。きっかけは、ある女性の負傷だった。警察が水平射撃したゴム弾が、デモに参加していた女性の目に直撃した。女性は病院に運ばれたものの失明する可能性があるという。これに憤ったデモ参加者たちが「警察のやり方は過剰すぎる」と怒りをあらわにし、空港へと集結したというのだ。空港を利用する外国人旅行者に、香港の現状を知ってもらおうと、ビラを配布したりプラカードを掲示するためだ。
そしてついに当局は、香港国際空港の閉鎖を決めた。すべての離発着する便を欠航にし、旅行者に対しては「すみやかに空港から離れるように」とアナウンスを始めたのだ。中国政府の記者会見でも、報道官が「テロの恐れがある」と言及しているように、これはもはや一触即発の事態と言ってよい。
そもそも多数の外国人旅行者が行き来する空港では、警察隊もむやみにデモ隊の鎮圧が出来ない。しかし、航空便の発着を停止し、外国人を空港から退避させればどうなるか。空港に残っている人間はすべてデモ隊とみなし、文字通り一網打尽にする計画が進んでいると言ってもよいだろう。
ニュース映像では、日本人観光客が空港に足止めされたケースや、乗り継ぎの合間にちょっと香港観光をするつもりだった、などというコメントが流されていたが、もはや事態はそんな悠長なことを言っているレベルではないことを知るべきだ。
私を含め、民主的かつ自由な国家で生まれ育った人間には、一党独裁の共産主義国家を牛耳る人間たちの価値観や発想が、想像もつかないものだということを肝に銘じるべきだろう。
◆「経済発展なんてどうでもいい」という中国政府の本音
先日、台北や上海などの支局長を歴任したベテラン新聞記者と話す機会があった。そこで私は、至極単純な疑問ながら、なかなか明確な答えを得られない問題を尋ねてみた。
「中国は1989年の天安門事件によって経済制裁を受け、まさに国際社会の孤児になった。ありとあらゆる情報が駆け巡るこの時代に、もし天安門事件の再来のような事件が起きたらどうなることか、中国の指導者は分かっていないんでしょうか。それとも分かっているけどやらざるを得ないと思っているんでしょうか」
思えばこの疑問そのものが、そもそも西側の自由主義陣営で生まれ育った私の楽観的な考えだったといえる。つまり、「国際社会が注視するなか、当局が暴力で市民を抑圧するようなことをするわけがない」「国際社会から孤立し、GDP第二位の地位から滑り落ちるようなやり方をするはずがない」という発想だ。
ただ、こうした「国際社会が見ている」「暴力的な行為を世界に発信することになる」といった発想は、やはり自由民主的な国で育ったゆえのものだったようだ。
件の支局長曰く「中国の指導者たちは、おそらく国の内側にしか目を向けていないでしょう。外からどんなふうに見られているか、などというのは二の次三の次です。暴力だろうが軍隊だろうが、なんとしてでもこの香港の『暴徒』を制圧しなければならない。さもなくば、この『暴動』がウイグルやチベットなど、共産党政権が抑圧してきた地域にまで飛び火する。この場合、極端にいえば経済発展なんかどうでもいいんです。つまり、経済は頑張れば何十年かで取り返せるかもしれないけれど、党が無くなったら彼らは終わりなんです。だから党を守るためなら、外からどう見られているかなんてどうでもいい。そういうことです」
冒頭、完全撤廃を求める香港人のデモは「中国人の『口先だけならなんとでも言える』習性」を熟知しているからこそ、と書いた。時代は違えど、彼らの本性が変わっていないことは歴史が証明している。
◆根こそぎ処刑された台湾の「228事件」
1947年2月に台湾で起きた「228事件」は、日本の敗戦後、台湾を占領統治していた国民党政府のあまりの腐敗ぶりに、堪忍袋の緒が切れた台湾の人々が立ち上がった事件として記憶されている。
闇タバコを売っていた女性への過剰な暴力が引き金となり、鬱憤をためていた市民の、当局への怒りが爆発したのだ。抗議のデモ隊は政府機関へと大挙して押し寄せたが、恐れをなした国民党側は機銃掃射でもって彼らの声に応えた。それによってさらに多くの人々が抗議活動を展開する結果となった。
劣勢とみた当時の行政長官、陳儀は話し合いを求める台湾の人々の要求に応え、話し合いの場を設けた。それによって人々が求める要求を尊重する姿勢を見せながら、一方では中国大陸に援軍を要請し、時間稼ぎを図っていたのだ。結果、大陸から送り込まれた軍によって、抗議活動に参加した人々は根こそぎ捕らえられ処刑された。話し合いの場は、ただの時間稼ぎにすぎなかったのである。
このとき、すでに日本から台湾へと戻っていた李登輝も、いちど話し合いの場を聴講したことがあるという。しかし李登輝は、国民党側の反応を見て「どうもいけない。のらりくらりと話し合いを引き伸ばしにかかっているようにしか見えない」とあわててその場を去ったそうだ。
自身も「知識階級」である李登輝は、その後、国民党によって展開された掃討作戦から逃れるため、大稻●(台北西部の繁華街)にあった親友の家の米蔵にしばらく身を隠して難を逃れている。(●=王呈)
中国人の本性は70年前も現在も、微塵も変わっていない。まさに「口と愛想はタダ」ではないが、口先ではなんとでも言えるし、相手を懐柔するためにときには譲歩したように見せかけるのも常套手段なのである。
香港の自由はもはや風前の灯といってよい。空港機能を停止させ、香港当局は一気にデモ隊を潰す作戦だろう。私たちも、自由民主的な基準で香港当局や中国政府を考えることは間違いだった、と気づかなければならない時が来ている。一党独裁の人治国家がその存続のため、香港に牙を剥いたあとには、台湾そして日本がターゲットになるという危機を改めて認識するべきだろう。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、台湾総統府国策顧問だった金美齢氏の秘書に就任。2008年、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。