天安門事件から30年を迎え、台湾や香港では大規模な追悼集会が開かれた。特に台湾は、言論の自由が保障されていることもあり、台北市内中心部の中正紀念堂で、戦車の前に立ちはだかった学生を模したモニュメントが展示されたほどである。
中正紀念堂は、国民党とともに中国大陸から敗走してきた蒋介石の巨大な像が安置されている。
蒋介石もまた、学生たちを弾圧した共産党政権と同じく、独裁体制や白色テロによって台湾人を弾圧した当事者だが、そこへ皮肉にも天安門事件の象徴のようなモニュメントが置けるほど、現在の台湾は言論の自由が保障された社会に生まれ変わったともいえる。中国政府による管理がいっそう強化された香港とは大きく異なる民主化の成熟度を見せつけたかのようだ。
そしてこの場所は同時に、台湾の民主化の端緒となる出来事が起きた場所でもあった。
◆「急進的な改革」を避けた李登輝
奇しくも天安門事件の発生から9ヶ月後の1990年3月、台湾でもまた自由や民主化を求める学生運動が起きていた。
当時の総統は李登輝。これまで何度も書いてきたが、88年に蒋経国が急逝して総統職を継いだものの、すぐに権力をふるうことなど不可能な環境だったといえる。周囲は李登輝を、つかの間の代打と捉えるか、あるいは形ばかりの「ロボット総統」に仕立てて背後からコントロールすればよいと考える者ばかりだったそうだ。
また、李登輝自身も「急進的な民主化」は望んでいなかった。もちろん頭のなかには「人々が枕を高くして安心して寝られる社会を実現したい」という青写真があったものの、とにもかくにも最優先させたのが「社会の安定」だったという。
それまでの台湾は戦後40年あまり、良くも悪くも国民党による強権統治の支配下にあった。蒋介石から息子の蒋経国へとバトンタッチされ、いちおうは国民党が一枚岩となってこの台湾を統治してきたのである。
しかし、蒋経国は何も言わぬまま逝ってしまった。むしろ「蒋家から総統を出すことはない」とまで明言していたし、実際に遺言を聞いた者はいなかった。
李登輝もあの日のことはよく覚えているそうだ。当日のことを尋ねると、メモも見ることなくよどみなく話してくれた。
「午後、アメリカから国会議員の来客があって総統府で応接していた。そのさなかに七海(蒋経国官邸のこと)から連絡があって私に用があるという。ただ、その電話を受けた秘書が『来客中です』と答えて切ってしまったそうだ。
しばらくしてまた電話があった。その電話を受けた秘書が『ともかくも七海からだから』と気を利かせてメモを入れてくれた。それで私は急いで切り上げて総統府を出発したんだ。
でも到着したとき、すでに蒋経国は亡くなっていた。なので私は蒋経国の遺言を聞くことが出来なかったんだ。一度目の電話を秘書がきちんと取り次いでいたらあるいは、という気持ちはある」
ともかくも、その夜のうちに副総統の李登輝が総統に昇格することが決まった。そして李登輝は社会の安定を図るため、そして従来の蒋経国路線を踏襲する、という自分の意志を見せるために実践したことがあった。
それは、毎朝必ず蒋経国の遺体が安置されている栄民綜合病院を訪れ、焼香してから総統府へ出勤するというものだった。蒋介石、蒋経国と二代にわたり強権によって統治されてきた台湾がこれからどうなっていくのか。
党内部や三軍はもちろんのこと、台湾社会もまた不安を抱えていた。そこで、李登輝は蒋経国の霊前を毎朝欠かさず訪れることによって、無言のうちに「李登輝が総統になっても、これまでの蒋経国路線を継承する。急進的な改革によって社会が不安定になることはない」とアピールすることで人心の安定を図ったのである。
◆「天安門事件」が台湾の民主化に与えた影響
さて、話を90年3月に戻そう。当時の中国大陸も、台湾も社会の状況は驚くほど似通っていたといえる。双方とも、共産党あるいは国民党による独裁の「党国体制」だし、言論の自由も集会の自由も保障されていなかった。
ただ、台湾と中国大陸では大きな差がひとつあった。それは、台湾がすでに86年には民進党の結党を黙認し、87年には戒厳令を解除するなど、民主化の階段を一歩ずつ上がり始めていたことだ。
89年の天安門事件は台湾でもテレビや新聞などで報じられていたという。台湾ではすでに戒厳令が解除されていたとはいえ、まだ民主化の萌芽がかろうじて見えてきた程度だったはずだ。
実際、白色テロの根拠となっていた「内乱罪」を規定した刑法100条が改正され、言論の自由が保障されるのは92年5月のことである。
天安門事件で、血で血を洗うような弾圧が行われたのを知る学生たちが、なぜそれでもなお、中正紀念堂に集まって民主化を求めたのだろうか。
それはやはり、前述したように、台湾はすでに民主化の階段を一歩ずつ上がり始めていたという実績があったからで、中国大陸のように武力によって弾圧することはないだろう、といういささか楽観的ではあるものの、政府に対する期待があったのではなかろうか。もちろん、蒋経国の死後、就任したのが本省人の李登輝だという希望も大きかったのだろう。
資料によると、6,000人を超える学生が集まった中正紀念堂には、蒋経国の息子である章孝慈が学生たちを激励するために訪問しているし、李登輝自身も「学生たちの様子を見に行きたい」と漏らしたものの、「万全の警備が出来ない以上、身の安全を保証できない」という国家安全局の強い反対で頓挫したそうだ。
李登輝はこの「三月学運」あるいは「野百合学生運動」と名付けられた学生たちの抗議活動を重視していた。それにはいくつかの理由がある。
まずは9ヶ月前に起きた天安門事件の影響だ。天安門事件が国際社会にもたらした衝撃は大きく、中国の国際的イメージは最悪であった。
つまり、こうした学生運動が国家のイメージを作り上げるうえで非常に大きな影響を及ぼす、ということを中国の事例から学び取っていたからである。
李登輝いわく「従来の国民党であれば、台湾の学生たちも天安門事件と同じように武力で弾圧せよ、という声が大勢を占めたかもしれない。しかし、天安門事件によって中国が蒙った負のイメージは計り知れなかった。それを目の当たりにしたことによって強硬的な意見は鳴りを潜めた」のだという。
◆「民の声」を利用した李登輝
さらには、学生たちを鼓舞することによって、一般の人々の口から「民主化」を要求する声の高まりを企図することもあったそうだ。学生運動が市民に波及することで、「民主化」への要望が社会全体のものに昇華させる必要があったのだろう。
そして最も重要なことは、台湾の民主化が李登輝主導のいわゆる「トップダウン」ではなく、社会の要求にこれ以上抗いきれないという体での「ボトムアップ」方式で行われようとしたことだ。
李登輝が総統に就任してから2年が過ぎていたものの、まだまだ党内には李登輝に懐疑的な目を向ける人間のほうが多かった。そこで民主化を主導するような動きをすれば、たちまちのうちに引きずり降ろされてしまうだろう。
最大の主眼である「民主化」を進めるためには、総統の座を手放すわけにはいかなかったのである。そのために李登輝にとっては「民の声」である学生運動が必要だったのである。
李登輝は軍や警察に対し、学生たちに手出しをすることを厳禁した。学生たちとの衝突が万が一起きれば、「第二の天安門事件」として台湾は中国と同列に語られることになるし、国際的イメージは地に落ちる。なにより、扇情事件が起きることになれば、国民党内における強硬派の意見が再び勢いを得る恐れさえあったからだ。
結局、李登輝は中正紀念堂での座り込みが始まってから5日後に学生代表を総統府に招いて話し合いをしている。その席上、学生たちから示された要望を受け、李登輝はいよいよ民主化に本腰を入れて着手する。
それによって、翌91年には国家総動員法にあたる「動員戡乱時期臨時条款」が撤廃され、数十年にわたって改選されなかった「万年議員」たちを退職させることに成功した。これによって、いよいよ台湾は民主化の新しい時代に入っていくのである。
◆李登輝が、中国の人々に伝えたいこと
李登輝は昨年6月、訪問した沖縄での講演で次のように述べている。
「中国の覇権主義は、その政治体制が生み出す問題です。中国は愚民政策を施し、国民の民主的思想を抑え込んでいます。中国の人々は、未だかつて本物の民主主義や自由というものを経験したことがないのです。私たちは中国の人々との交流や協力もまた進めなければなりません。
とはいえ、中国の独裁政権がその覇権主義的な野心をアジアにまで広げようとする企てには断固として反対します。すでに民主主義を確立し自由を勝ち取った私たちは、人類の文明に対する責任を有しています。
同時に、中国の人々に民主主義と自由の本当の価値を伝え、民主主義あってこそ本物の自由が手に入る、ということを呼びかけていかなければなりません」
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、金美齢事務所の秘書として活動。2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。