【西日本新聞:2023年8月28日】https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1120811/
◆台北市在住の92歳・蔡焜霖さん
台湾で第2次世界大戦中に日本兵となり、国民党政権の戒厳令下で政治犯として投獄され、台湾現代史を象徴する人がいる。台北市在住の92歳の蔡焜霖さん。「白色テロ」と呼ばれた過酷な人権弾圧を乗り越えた半生は漫画化され、今年1月までに邦訳版も出された。戒厳令の解除から36年。東アジアの緊張感が高まる中、蔡さんは今、何を訴えているのか。 (台北・後藤希)
5月、蔡さんの自宅を訪ねると、流暢な日本語で迎えてくれた。「台湾では長くタブーとされた暗い時代で、若い世代は知らない人も多い」。語り部としても活動する蔡さんの半生を聞かせてもらった。
1930年、日本統治下の台湾で生まれた。10人きょうだいの四男。家では台湾語を使い、学校では日本語を教えられた。読書が好きで、教育者になることが夢だった。
だが、45年4月に「警備召集」の名目で、陸軍2等兵になった。軍用飛行場で空襲に遭い、サトウキビ畑に逃げ込んだことも。
日本の敗戦後、中華民国の国民党政権が台湾を接収。学校で使う言葉は中国語(北京語)になった。
49年、国民党政権は全土に戒厳令を敷いた。「共産党員の一掃」を名目に、罪もない多くの人が逮捕され、処刑された。この弾圧が白色テロと呼ばれる。
約10年間、孤島の収容所で働かされた蔡さんはこう振り返る。
「博士も弁護士も、人間が人間として扱われない地獄のような経験をした」
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19歳だった50年9月、突然、勤めていた役場を訪ねてきた憲兵に捕まった。高校時代に参加した読書会が理由だった。「放課後に先生と生徒が1冊ずつ好きな本を選んで感想を話し合っていただけなのに…」。反政府組織と言われ、拷問を受けた。
足の指に電線を巻き付けられ、電気ショックを与えられた。憲兵に「認めれば2、3日で家に帰してやる」とだまされ、自白書に母印を押した。銃殺された仲間もいた。50年11月、10年の懲役刑が下された。
その後、台湾東部に浮かぶ緑島に送られた。政治犯の思想改造を目的とした「新生訓導処」に入れられ、中華民国を建国した孫文や蒋介石総統について教えられた。
蔡さんによると、収容者は約2千人に上り、医師や作家、芸術家もいたという。建設資材の運搬など強制労働が課せられたが、「収容者同士が支え合って乗り越えた」と語る。
60年9月に刑期を終え、島を離れた。だが、その後も“前科”はついて回った。夢だった教師を目指し、入学した台北師範専科学校では「教師にふさわしくない」と言われ、自主退学に追い込まれた。父は、蔡さんが緑島に送られた翌年に自殺していた。
苦労の中で蔡さんの武器となったのが、日本語能力だった。出版社で日本漫画の翻訳を手がけるようになった。66年には児童雑誌「王子」を創刊。日本の漫画を参考にした漫画や児童文学を生み出し、台湾の文化に大きな影響を与えた。
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記者は7月、本島から33キロ離れた、かつての「監獄島」を訪れた。今では、ダイビングスポットとして人気の島だ。
炎天下、緑島南寮漁港から徒歩で約1時間。向かった先は、2018年にオープンした「国家人権博物館 白色テロ緑島紀念園区」(32ヘクタール)。ここには、蔡さんが収容されていた「新生訓導処」跡(1950年代)があり、思想教育を受けた教室などが再現されている。当時は水も電気もなかった。「監獄のそばには1本の渓流が流れ、『命の水』と呼ばれていました」。ガイドの解説に耳を傾ける若い観光客の姿もあった。
言論の自由を奪い、世界最長ともいわれる38年間に及んだ戒厳令。白色テロは、李登輝政権が1992年、根拠となった法律を修正したことで、ようやく正式に終わった。その後、蔡英文政権が2018年、真相解明のための委員会を設置。戒厳令下などで逮捕や起訴された2万人あまりの名簿を含む報告書をまとめたが、今なお全貌は解明されていない。
戒厳令の解除後、人権意識の高まりで女性運動が活発になり、同性婚をアジアで最初に法制化するなど、民主化は急速に進んだ。一方、中国は台湾統一を悲願とし、台湾有事の可能性が取り沙汰される。
「台湾は多くの苦難を乗り越えてきた。どんな苦しい事態にあっても、正義を堅持して強く生きてほしい」。そう未来を見つめる蔡さんのまなざしは温かかった。
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