座」を連載しはじめ、それは現在も続く長期連載となっています。
この『群馬学とは』は、文化運動としての「群馬学」を提唱し、そのグランドデザイン
を模索する中で群馬と台湾との深い縁(えにし)を紹介している、群馬県立歴史博物館の
学芸員をつとめる手島仁(てしま・ひとし)の著書です。
群馬県は台湾と縁が深く、最後の日本人台南市長を務め、台南の文化遺産を守り抜いて
台南の人々から尊敬される羽鳥又男(はとり・またお)、「台湾紅茶の父」と慕われる新
井耕吉郎(あらい・こうきちろう)、台湾の風土病撲滅に多大な功績を残し台湾ツツガム
シ病を発見した医学博士の羽鳥重郎(はとり・じゅうろう)、台湾いろはかるたをつくっ
た須田清基、基隆に台湾最初の「基隆夜学校」や私立図書館「石坂文庫」を創設して「基
隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる石坂荘作(いしざか・しょうさく)などが
おり、それらを含む群馬出身の人々やその文化などを紹介した本です。
東京新聞連載の「手島仁の『群馬学』講座」は、この本を下敷きに書かれ、5回目(2011
年1月31日)で、台湾関係者として羽鳥又男が初登場しました。
この記事はインターネットに掲載されておらず、当時は事情により本誌でご紹介できま
せんでしたので、ここにその全文を紹介します。
なお、手島氏のプロフィールは本誌編集部が付け加えたことを付記します。また、漢数
字は算用数字に改めています。
また、手島仁氏の『群馬学とは』は本会ホームページで詳しく紹介しています。
◆手島仁著『群馬学とは』
http://www.ritouki.jp/news/distribution/gunmagaku.html
日本人最後の台南市長・羽鳥又男─上州人の「義理」台湾で貫く
【東京新聞:群馬版 2011年1月31日 手島仁の「群馬学」講座(5)】
写真:珊瑚寺の羽鳥又男像=前橋市で
平成の合併で前橋市となった富士見村石井、珊瑚(さんご)寺という天台宗の名刹(め
いさつ)がある。平成19(2007)年4月25五日、羽鳥又男の胸像が建立された。
又男はクリスチャンであった。これは、昭和36(1961)年に生誕百年を記念して頼政神
社(高崎市)に建てられた内村鑑三の漢詩「上州人」の碑と対をなすもので、クリスチャ
ンの碑が神社にあるのも、胸像が寺院にあるのも、世界中で群馬県だけであろう。
いずれも、理屈を言わず、義理人情を重んじる上州人気質から生まれた、寛容な宗教観
によって実現したものである。
羽鳥又男の名は日本では無名に近いが、台南市では、生誕百年に当たる平成4(1992)
年、台湾の大手日刊紙「中国時報」が特集記事を掲載。生誕百十年の同14(2002)年に
は、台湾の実業家・許文龍氏が胸像を作り、又男ゆかりの赤嵌楼(せっかんろう)に安置
し、日本へも寄贈した。
どうして、台南には又男に対する敬慕の念が息づいているのであろうか。
羽鳥又男は明治25(1892)年、勢多郡富士見村石井に生まれた。代用教員時代に共愛女
学校長・青柳新米の講演を聴きキリスト教に関心を持ち、大正5(1916)年に台湾に渡り洗
礼を受けた。台湾総督府中央研究所の職員となり、勤勉さが認められ、昭和17(1942)年4
月に台南市長に抜擢(ばってき)された。50歳だった。
敗戦までの3年間、又男市長は次のような善政を行った。1)孔子廟(びょう)に置かれ
ていた神棚を撤去し、市民が同廟の老朽化に心を痛めていることを知ると、修復し伝統的
祭礼を復活させた、2)台湾の歴史を象徴する赤嵌楼のなかの文昌閣が倒壊しそうなのを
見て、建物修復を行った。戦時中で台湾総督府の許可が下りなかったが説得した、3)戦
争のため供出された開元寺の釣り鐘が、台湾最古のものと知ると寺への返却を命じた。
「中国時報」によれば、「義を重んじ恩に感じるのが台南人の特筆である」という。わ
が上州も「義理人情」の風土で、珊瑚寺の濱田堯勝住職や檀家(だんか)世話人会が、ク
リスチャンの胸像を受け容(い)れてくれたのも、又男は郷土の偉人であり、台南市長と
して開元寺の古鐘を守ってくれた仏教の恩人であると、台湾からの善意に応えた結果であ
った。
2月2日(水曜)にBS-TBS「ゆらり散歩 世界の街角〜台南・古都に残る日本の面影」(午
後8時〜8時54分)で、羽鳥又男をはじめ、台南で活躍した日本人が紹介される。
(県立歴史博物館学芸員)
手島仁氏プロフィール
[てしま・ひとし]前橋市生まれ。前橋高校を経て立命館大学文学部卒業後、群馬県内の
中央高校、群馬県史編纂室、桐生西高校、吉井高校に勤務。その後、群馬県立群馬歴史博
物館に専門員と勤務し現在に至る。主な著書に『総選挙でみる群馬の近代史』『中島知久
平と国政研究会』(上・下)など。論文多数。