昨年8月30日の本誌で紹介した『群馬学とは』を著した群馬県立歴史博物館学芸員
の手島仁氏は現在、東京新聞の群馬版に「手島仁の『群馬学』講座」を連載して
いる。
『群馬学とは』の紹介のときに記したように、群馬県は台湾と縁が深い。最後の
日本人台南市長を務め、台南の文化遺産を守り抜いて台南の人々から尊敬される
羽鳥又男(はとり・またお)、「台湾紅茶の父」と慕われる新井耕吉郎(あらい
・こうきちろう)、台湾の風土病撲滅に多大な功績を残し台湾ツツガムシ病を発
見した医学博士の羽鳥重郎、台湾いろはかるたをつくった須田清基、基隆に台湾
最初の「基隆夜学校」や私立図書館「石坂文庫」を創設して「基隆の聖人」とか
「台湾図書館の父」と呼ばれる石坂荘作などを『群馬学とは』で取り上げている
。
この「手島仁の『群馬学』講座」の5回目(1月31日)で台湾関係者として羽鳥又
男が初登場した。インターネットでは掲載されていないため、ここにその全文を
紹介したい。手島氏のプロフィールは本誌編集部で付け加えた。
【編集部】
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手島仁の「群馬学」講座(5)
日本人最後の台南市長・羽鳥又男─上州人の「義理」台湾で貫く
【東京新聞:群馬版 2011年1月31日】
平成の合併で前橋市となった富士見村石井、珊瑚(さんご)寺という天台宗の名
刹(めいさつ)がある。平成十九(二〇〇七)年四月二十五日、羽鳥又男の胸像
が建立された。
又男はクリスチャンであった。これは、昭和三十六(一九六一)年に生誕百年を
記念して頼政神社(高崎市)に建てられた内村鑑三の漢詩「上州人」の碑と対を
なすもので、クリスチャンの碑が神社にあるのも、胸像が寺院にあるのも、世界
中で群馬県だけであろう。
いずれも、理屈を言わず、義理人情を重んじる上州人気質から生まれた、寛容な
宗教観によって実現したものである。
羽鳥又男の名は日本では無名に近いが、台南市では、生誕百年に当たる平成四(
九二)年、台湾の大手日刊紙「中国時報」が特集記事を掲載。生誕百十年の同十
四(二〇〇二)年には、台湾の実業家・許文龍氏が胸像を作り、又男ゆかりの赤
嵌楼(せっかんろう)に安置し、日本へも寄贈した。
どうして、台南には又男に対する敬慕の念が息づいているのであろうか。
羽鳥又男は明治二十五(一八九二)年、勢多郡富士見村石井に生まれた。代用教
員時代に共愛女学校長・青柳新米の講演を聴きキリスト教に関心を持ち、大正五
(一九一六)年に台湾に渡り洗礼を受けた。台湾総督府中央研究所の職員となり
、勤勉さが認められ、昭和十七(四二)年四月に台南市長に抜擢(ばってき)さ
れた。五十歳だった。
敗戦までの三年間、又男市長は次のような善政を行った。1)孔子廟(びょう)
に置かれていた神棚を撤去し、市民が同廟の老朽化に心を痛めていることを知る
と、修復し伝統的祭礼を復活させた2)台湾の歴史を象徴する赤嵌楼のなかの文
昌閣が倒壊しそうなのを見て、建物修復を行った。戦時中で台湾総督府の許可が
下りなかったが説得した3)戦争のため供出された開元寺の釣り鐘が、台湾最古
のものと知ると寺への返却を命じた。
「中国時報」によれば、「義を重んじ恩に感じるのが台南人の特筆である」とい
う。わが上州も「義理人情」の風土で、珊瑚寺の濱田堯勝住職や檀家(だんか)
世話人会が、クリスチャンの胸像を受け容(い)れてくれたのも、又男は郷土の
偉人であり、台南市長として開元寺の古鐘を守ってくれた仏教の恩人であると、
台湾からの善意に応えた結果であった。
二月二日(水曜)にBS-TBS「ゆらり散歩 世界の街角〜台南・古都に残る日本の面
影」(午後八時〜八時五十四分)で、羽鳥又男をはじめ、台南で活躍した日本人
が紹介される。
(県立歴史博物館学芸員)
写真:珊瑚寺の羽鳥又男像=前橋市で
毎週月曜日朝刊に掲載。第六回は「新島襄、船津伝次平と梅花」
手島仁氏プロフィール
[てしま・ひとし]前橋市生まれ。前橋高校を経て立命館大学文学部卒業後、群
馬県内の中央高校、群馬県史編纂室、桐生西高校、吉井高校に勤務。その後、群
馬県立群馬歴史博物館に専門員と勤務し現在に至る。主な著書に『総選挙でみる
群馬の近代史』『中島知久平と国政研究会』(上・下)など。論文多数。