加瀬氏は本日(1月8日)の「加瀬英明のコラム」メールマガジンで「心を一つにできる唯一の国、台湾」と題し、この贈呈式のことなどを伝えているので下記に全文をご紹介したい。
なお、加瀬氏は「屏東では植物のご研究によって知られた殿下が竹の新種を発見され、『瑞竹』と命名されて、お手植えになられた」と書かれている。そのときに紹介した中央通信社の記事でも「竹とガジュマルは、親王が屏東と台南で自ら植樹されたものだという」とある。
一方、本誌の10月18日号では、皇太子の裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が摂政宮として、李登輝元総統が生まれた1923年(大正12年)の4月、16日から27日にかけて台湾を行啓(ご訪問)された折に、どこに、なにをお手植えになったのかについて、参考文献として、名越二荒之助・草開省三編著『台湾と日本・交流秘話』所収「摂政街道・民衆の心に生きる昭和天皇」、片倉佳史著『古写真が語る台湾』所収「詳録・裕仁皇太子の台湾行啓」を挙げながら詳述し、この「瑞竹」については「(4月)22日に屏東の台湾精糖屏東工場を訪問された際には、特設休憩所のテントの支柱としていた台湾特産の麻竹に新芽を発見され、台湾の人々は『瑞竹』と称揚し、大切に育んできたそうです」と紹介している。
もちろん、寄贈の意義を損うような事柄ではなく、歴史事実を明らかにしておきたいだけであることをお断りしておきたい。 —————————————————————————————–心を一つにできる唯一の国、台湾【「加瀬英明のコラム」メールマガジン:2019年1月8日】
私が台湾をはじめて訪れたのは、1960年代のことだった。
台湾は国共内戦に敗れて、大陸から逃げ込んできた蒋介石政権のもとにあった。
台湾の知人に案内されて、台北の街の屋台である夜市(イエス)で、「青蛙下蛋(チンファシャタン)」(青蛙の卵)と呼ばれたタピオカを、はじめて味わった。
いま、タピオカが日本の若者のあいだで異常なブームとなっている。
もっとも、台湾の夜市では、もう「蛙の卵」ではなく、「珍沫[女乃]茶(ソンチュクイチャ)」(真珠のお茶)と呼ばれるようになっている。
この“タピオカ・ブーム”は、大企業や、大手メディアによる宣伝や、広告によってもたらされたのではない。
若者のあいだのSNS(ネット)によって、生まれたものだ。私の栄養士の友人によれば、多くの若者が1日2食しかとらない食生活の変化によって、助けられたという。
若者のあいだで「タピる」(タピオカを飲む)、「タピカツ」(就活、婚活と同じ)という新語が流行っていると、教えてくれた。
産経新聞によれば、「2019年新語流行語大賞」候補の30語のなかに、「タピる」がノミネートされたという。
私はタピオカ・ブームから、若い世代がもはやメディアや、大人(おとな)たちの既存のコンセンサスによって縛られていないことに、関心をいだいた。
日本から台湾を訪れる観光客は、2018年に197万人を数えたが、この10年間でほぼ2倍となっている。台湾に対する好意が増している。
私は台湾へ通って、李登輝総統(当時)の知遇をえたほか、多くの親しい友人をつくった。2014年に、私の著書『日本と台湾』(祥伝社、2013年)が台湾で訳出されて、『日本與台灣』(大都會文化)として出版され、重版を重ねている。
2019年の10月19日は、土曜日だった。
天皇陛下がご即位を世界へ宣明された、『即位礼正殿の儀』の3日前に当たった。
この日に、私は拓殖大学におけるシンポジウムで、渡辺利夫前拓大学長と講師をつとめることになっていた。ところが、その10日前に已むをえない事情によって、シンポジウムを欠席しなければならなくなった。
主催者に説明したところ、シンポジウムよりも重要だと理解してくれた。そのかわりに、メッセージを寄せるように求められた。
「今週火曜日の産経新聞によって報道されましたが、台湾の政界、経済界の有志が『台湾・桜里帰りの会』を立ち上げられ、日本において令和の御代が明けたのを祝って、1923年に昭和天皇が摂政宮・皇太子殿下であられた時に、台湾を12日にわたって行啓され、お手植えになられた、桜、ガジュマル、瑞竹の苗木を、日本へ里帰りさせることとなり、今日の同じ時刻にその目録の贈呈式を、明治記念館において行うことになりました。
台湾側では『台湾・桜里帰りの会』の名誉会長に李登輝元総統の曽文恵夫人、日本側は安倍首相の母堂の安倍洋子夫人が就任され、私が会長をひき受けることを求められました。
今日の式典には、『台湾・桜里帰りの会』会長で、台湾政界の重鎮の黄石城先生をはじめ、多くの要路の方々が来京されます。
昭和天皇ゆかりの桜、ガジュマル、瑞竹が、日本へ里帰りすることは、日本と台湾の精神的な強い絆を象徴するものです。
台湾の独立と自由を守ることが、そのまま、日本の独立と自由を守ることになります。
香港では自由を渇望する青年男女や、老壮市民が、邪しまな北京の共産政権に対して、もう半年近くにわたって、連日、街頭を埋めて果敢な抗議集会を続けています。
香港の自由と民主主義を求める市民たちの人波のなかに、民主主義と人権の象徴として、米国の星条旗、英国のユニオン・ジャック、カナダ、オーストラリアなどの国旗や、台湾の緑の独立旗が掲げられていますが、日の丸がまったくみられないのは淋しいだけではなく、恥しい思いに駆られます。
かつてアジアの解放を理想として、日の丸を高く掲げ、『アジアの盟主』をもって任じた日本国民の気概は、どこへいってしまったのでしようか。
専制中国の虐政のもとで苦しんでいる、チベット、ウィグル、南モンゴルの人々が、天与の権利である自由を回復しないかぎり、アジアに平和が訪れることはありません。」
明治記念館における贈呈式典では、台湾の駐日大使に相当する謝長廷・台北駐日経済文化代表処代表をはじめ、日台の関係者が見守るなかで、黄会長から安倍夫人に苗木の目録が贈られた。
その後に、台湾の駐日代表をつとめられた許世楷元大使と、私が昭和天皇ゆかりの苗木の里帰りに至った経緯と、苗木をどこに植えることになるのかなどについて、説明した。
私は「3日後に迫った即位大礼を祝って、多くの諸国、地域などの代表が来京されますが、台湾だけが即位大礼の前に、このような素晴しい、心がこもった“前夜祭”を催して下さり、多くの国民が台湾に深く感謝するでしよう」と、述べた。
そして、「台湾は同じ隣国である韓国が、国をあげて『反日』に熱中して、日本時代に全土に開設した小中高校の校庭の日本原産の樹木を伐採しているのと対照的に、日本に世界のどの国にもみられない、深い親近感を寄せてくれています」と、つけ加えた。
昭和天皇は、大正天皇が重い病にかかられたために、訪台される2年前に20歳で摂政宮に就任されていた。
台湾では、摂政宮・東宮殿下を島民をあげて歓迎申し上げ、台北市民が今日、見事な桜並木となっている苗木を植え、台南ではガジュマル、屏東では植物のご研究によって知られた殿下が竹の新種を発見され、「瑞竹」と命名されて、お手植えになられた。
私は10年ほど前に、台湾を訪れた時に、台北の副市長が案内してくれたが、「昭和天皇陛下ゆかりの桜並木を誇りにして、市民が大切にしています」と、教えられた。
台南のガジュマルの樹は、いまでは枝を広々とひろげた大樹となって、屏東の瑞竹林とともに、昭和天皇がお植えになった由緒から、観光の名勝となっている。
私は台湾と日本が一蓮托生の関係によって結ばれていると、信じてきた。
台湾はインドネシアから日本に至る列島の日本のすぐ隣に位置しており、もし、台湾が敵性国家によって奪われることがあったら、日本が独立を維持できなくなる。
台湾は日本にとって、“第二の九州”といえる。偶然だが、台湾と九州の面積はほぼ均しい。
日本を訪れる観光客数では、台湾は2018年に476万人で、中国、韓国についで第3位となっている。台湾の人口が2350万人だから、台湾国民の4人か、5人に1人が日本を訪れている。当然、リピート客が多い。
台湾で行われている世論調査では、毎年、日本が「もっとも好きな国」として第1位を占め、アメリカが次いでいる。
だが、私たちは台湾国民が日本へ寄せている、友情に応えているだろうか?
私は昭和47(1972)年に、田中角栄内閣のもとで日中国交正常化が行われ、台湾を切り捨てた時に、月刊『文藝春秋』などの誌上で、この暴挙に強く反対した。中国共産党政権が歴代皇帝といささかも変わらず、権力を私して覇権のみ求めるから、信頼できないと論じた。
あの時の中国はソ連の侵攻に脅えて、日本と結ぶことを焦っていた。当時、日中貿易は世界最大のものであり、日本が中国と急いで国交を結ぶ必要はなかった。
中国は日台が領事関係を維持することを、認めたはずだった。日本はアメリカが中国を承認するまで待つべきだった。日中国交正常化は、戦後の日本外交の最大の汚点となった。
私は1979年に防衛庁(当時)がつくった、最初の民間の安全保障研究所の理事長をつとめた。中国にはじめて招かれた時に、毛沢東の大長征の戦友といわれた、李達人民解放軍副参謀長が人民大会堂において、私の歓迎晩餐会を催した。
宴席で李副参謀長が挨拶して、「日本は防衛費を、GNPの2%にすべきだ」と促した。
中国の国防部と人民解放軍によって、頻繁に招かれたが、ある時、「先生はどうして、台湾に肩入れされるのですか?」と質問された。私は「50年間も日本国民だった台湾国民を守るのは、日本人としての義務です」と答えた。
目録の贈呈式典に戻ると、以前お目にかかった台湾の黄石城先生が「20年ぶりですね」といわれて、私を憶えていて下さった。
黄先生は、自伝『権力無私・私の参政への建言』の日本語訳(海苑社、呉本信一訳、2010年)のなかで、「日本が台湾に対して行った植民地統治は基本的な建設が相当よく、その時代は皇民教育があったといえども、教育上においてヒューマニズム教育の修身を重視していました。したがって、これまでに日本の教育を受けた人たちは、やはり心にふれて感動しています」と、述べておられる。
黄先生は自伝で、現代社会が「是非の区別をしない」ために、「価値観をもっている人が少なく」なって、「ただ利害関係の価格ばかり考えて、価格観によって行動している」と、警告しておられる。
戦後の日本は、算盤勘定による経済を何よりも優先して、物事の是非を問うことなく、価値観を失った品位のない国家となってしまった。
是非――善悪を弁えていないと、一時的には物的に潤うことになるが、結局は大火傷してしまう。
今日の日中・日台関係が、黄先生の「価値観」と「価格観」の戒めが正しいことを、証している。
安全保障は、可能性が数パーセントであっても、最悪の場合を想定しなければならない。
“従北派”の文在寅政権のもとで、韓国が米日韓同盟から脱落して、在韓米軍が撤収することもありえよう。
もっとも、仮に韓国が敵性国家となったとしても、日本に対する脅威が大きく増すものの、日本が滅びることはない。
ところが、台湾を敵性勢力が支配することになれば、日本はその瞬間から独立を維持することができない。
それにもかかわらず、日台間には公的な関係が存在せず、両国間の軍事協議も行えないでいる。国会がアメリカに倣って台湾関係法を制定して、日本が台湾有事の場合に何をなすべきか、日台米の協議を行うべきだ。
若い世代は既存のコンセンサスによって、縛られていない。いま、日本に求められるのは、時代に適った日台関係をつくることだ。
台湾では4年前に、『日本皇族的台湾行旅 蓬莱仙島菊花香』(日本の皇族の台湾訪問 台湾が菊花に香った時、陳[火韋]翰著)という単行本が発行され、重版を続けている。
明治34(1901)年に、北白川宮が訪台されてから、昭和16(1941)年に閑院宮、同妃まで、26人にのぼる皇族が台湾を訪問された日程や活動が、写真入りで260ページにわたって紹介されている。
私はこの本を手に取って、もしこの本がはじめ日本で出版されたとしても、重版されないだろうと思った。台湾国民のほうが、日本の皇室に対して崇敬心が篤いのだ。
台湾国民の心情を知るために、この本の日本語版をぜひ出版したいと思う。
台湾は世界のなかで、日本と心を分かち合っている、唯一つの国なのだ。
世界で日本と心を一つにしている国が、他に、どこにあるだろうか。
桜、ガジュマル、端竹を植える先については、『日本・桜里帰りの会』に一任されている。すでに全国から問い合わせが、私のもとに寄せられている。
苗木を皇室ゆかりの場所に植えたいと、願っている。苗木が到着してから、検疫のために植物園に1年間預けることになるので、そのあいだに慎重に検討したい。