台湾烈士 許昭榮先生の生涯 [石戸谷 慎吉]

許昭榮烈士は昭和3年11月13日、当時の高雄州潮州郡枋寮庄水寮で生まれました。12
歳の時に御尊父が逝去し、枋寮公学校を一時休学し牛飼として働きましたが、授業料が
免除され、復学し、昭和15年に同校を卒業しました。この時、昭和15年、皇紀2600年で、
乃木大将の枋寮上陸記念式典に参加したのを鮮明に覚えていると語っていました。卒業
後は台南の薬局で働いていました。

 昭和19年、16歳で帝国海軍特別志願兵第2期に応募し、20倍以上の難関を突破し、合
格者2000名の一人に選ばれました。翌年、海軍第112期「飛行整備科」修了後、第61海
軍航空廠新竹分廠に配属され、新竹航空隊の沖縄特攻の「桜花」の出撃整備に従事しま
した。日本の敗戦後は帰郷し鉄工所に勤務していました。一時期、東港分廠にも派遣さ
れました。

 昭和22年、20歳の時に228事件が勃発しました。国民政府にとっては、旧敵国である
日本の旧日本軍兵士、また、軍属に志願した台湾人は危険分子と見られていました。

 この時、蒋介石の国民党軍は大陸で国共内戦を戦っており、連戦連敗していました。
蒋介石の海軍は賠償により接収した駆逐艦雪風(丹陽艦)などを主力に建軍途上にあり
ました。艦艇の運用、機関整備など技術要員を必要としていました。また、陸軍は国共
内戦の為に多くの訓練された陸兵が必要でした。

 許昭榮さんは、機関兵として蒋介石の海軍への入隊を強要されました。従わなければ
「清郷(危険分子なので殺害)の対象とする」と脅迫され入隊せざるを得ませんでした。

 入隊後、山東省青島の軍官学校での訓練、前記の丹陽の機関兵として、共産軍との内
戦に動員されました。

 長山島沖で、僚艦の誤射で許昭榮さんは同じ境遇の台湾人の親友を失います。この時
の戦死者を長山島に埋葬しようとしたとき、共産軍の急襲を受け、埋葬途中に退却せざ
るを得なくなります。

 沖合に停泊する丹陽を目指した内火艇に乗艇しますが、これが沈没し、海上を漂流し
ましたが、救助され九死に一生を得て生還しました。

 同時期に国民党は旧帝国陸軍特別志願兵、元軍属を募兵します。日本軍より復員して
も仕事の見つからない経済状況に有る者、また、甘言につられて募兵に応じた人数は約
15,000名と推定されます。蒋介石の軍は正確な統計が故意に隠蔽される事があり、正確
な人数は不明です。

 蒋介石の海軍に徴兵された人数も不明ですが、海軍は自ら海上輸送能力があります。
この海軍に参加した台湾老兵の帰還者数は約400名であり、戦病死した若干名がこれに
加わりますが、約15,000名の台湾老兵の圧倒的多数は陸兵でした。

 この15,000人の台湾籍蒋介石軍兵士(台湾老兵)のその後は悲惨の一語に尽きます。
国共内戦で戦死された方は約3,000名、残余の一万名以上は殆ど全員が、共産軍の捕虜
となります。この共産軍に捕虜となった、台湾老兵は、昭和25年に勃発した朝鮮戦争に
共産支那軍の一部として動員されます。この朝鮮戦争で、約6,000名が戦死したと推定
されます。からくも戦死を免れた台湾老兵を待っていたのは、大陸での文化大革命の狂
気でした。

 この狂気の権力闘争の期間に反革命分子として迫害虐殺された台湾老兵の数は2,000
名以上と推定されます。平成4年の段階での許昭榮さんの大陸での調査では、約1,000名
が大陸で生存していたとのことです。

 許昭榮さんの晩年は、この生存する台湾老兵の台湾帰還運動、働き手を失った台湾老
兵の家族の救済、補償要求運動、そして非戦運動に捧げられました。

 ともあれ、昭和24年国共内戦に敗北した蒋介石は台湾に逃れ、武装難民政権として白
色恐怖支配を打ち立てます。

 国共内戦の戦闘より生還した許昭榮さんは蒋介石の海軍から逃れられず、軍務に服し
ていました。その間、米国が供与したフリゲート艦接受要員として昭和23年米国に送ら
れます。さらに昭和30年、2回目のフリゲート艦接受要員として渡米した際、廖文毅を
首班とした台湾共和国臨時政府樹立のニュースをニューヨークで知ります。当時は「こ
れこそ台湾の希望の道」と確信したとの事です。

 また、廖文毅台湾共和国臨時大統領が『台湾独立運動10年史』を出版したとの事、ま
た、その梗概も報道されていました。

 米国より接受したフリゲート艦は、台湾への帰路、ハワイの真珠湾に帰港します。許
昭榮さんは横浜に在住していた叔父の許仕さんに連絡して、ホノルル在住の日系人の協
力を得て、この廖文毅著『台湾独立運動10年史』を受取り、密かに台湾に持ち帰ること
に成功しました。

 この廖文毅著『台湾独立運動10年史』は英文と日文で、台湾に広めるためには北京語
に訳す必要があると左営海軍基地で仲間と密議し実行しようとします。しかし、これが、
台東に帰省中の仲間の不注意で露見し、国家反逆罪で徒刑10年の判決を受け緑島送りと
なります。

 昭和43年刑期を終え出獄し、名古屋が本社の日本のミシン会社に技術課長として就職
します。蒋介石の特務機関は許昭榮さんを、政治犯としての監視だけならまだしも、就
職、居住の妨害、そして、勤務先に対する賄賂の要求など理不尽な行為を繰り返します。

 昭和47年、輸出製品に Made in ROC (中華民国)ではなく、Made in Republic of
Taiwan(台湾共和国製)と下請け業者がマーキングしてしまいます。これが元で、逮捕
され4ヶ月間拘禁され、拷問を受けますが、証拠不充分で釈放となります。しかし、蒋
介石政権の圧迫、勤務先に対する賄賂の要求などが強まり、会社に迷惑を掛けられぬと
この日系ミシン会社を自ら退職します。

 その後、台暉貿易会社を設立し、昭和55年に台中の東海大学に53歳で入学し、企業管
理を学びます。これにより、パスポート取得の資格が得ることが出来、昭和59年渡米し
て枝豆、ブラックタイガーの市場開拓などに従事します。ロッキー青木氏と会ったのは
この時との事です。

 昭和60年、当時、緑島に政治犯として収監されていた施明徳が抗議のハンガーストラ
イキを決行します。ロスアンジェルスに滞在していた許昭榮さんは、この、施明徳支援
デモに参加します。この時の影像に映っている許昭榮さんの隣の米国人女性は施明徳氏
の奥さんです。

 この許昭榮さんの活動を中華民国駐米代表部の特務機関は発見して、許昭榮さんが持
っていた、パスポートを無効にします。

 許昭榮さんは無国籍となったので、日本のロスアンジェルス総領事館に保護を求めま
すが、拒否されます。500ドルで日系人から譲って貰った中古車で米大陸を横断し、ワ
シントンDCの日本大使館に保護を求めますが、ここでも拒否されます。

 当時亡命していた彭明敏博士と会い、彼の助言でカナダに向かいます。カナダ政府は
政治難民として即座に受入れてくれました。カナダでは、日系の水産会社に就職するこ
とが出来ました。

 難民として、カナダでの生活は安定しましたが、脳裏から離れないのは山東省長山島
で僚艦の誤射により戦死した親友の事でした。カナダ政府が難民旅券を発行してくれた
ので、この旅券で支那大陸山東省を訪問し、親友の遺骨を探し当てます。そして、大陸
残留の台湾老兵の現地調査を開始します。

 平成4年、李登輝総統の民主化の成功により、ブラックリストが解除され、台湾に帰
国します。

 帰国して、カナダ在住の時から、大陸に残され、台湾に帰国できない台湾老兵の帰国
支援、大陸の遺骨捜索、大陸の家族の支援などに取り組みます。

 同時に高雄市旗津での台湾無名戦士記念碑の建立運動そして戦争と平和紀念公園の設
立運動に取り組みます。

 しかし、平成19年11月、高雄市議会で親民党の高雄市議会議員王齢嬌などの発議で、
同公園を「平和紀念公園」と改称し、同時に823砲戦戦勝記念碑を建てるとの決議が圧
倒的多数で通過しました。

 許昭榮さんは、これでは、台湾老兵を含む戦争と平和紀念公園としての意義がなくな
ると、この決議を覆すべく、市当局、市議会と交渉、抗議運動を行いましたが、高雄
市議会、高雄市政府は耳を貸さず、遂に5月20日抗議の焼身自決を決行しました。

 許昭榮さんの抗議焼身自決は、国民党に洗脳された台湾人が、今度は自分が台湾人の
若い世代に洗脳教育を行っている事に対する抗議だったと思います。

 民進党や陳水扁前総統に対する批判もあったでしょうが、台湾人の現状に対する警鐘
のメッセージだったと考えています。

                              文責 石戸谷 慎吉

                          皇紀2668年 平成20年7月6日
                               (西暦 2008年)