2・28事件で投獄され、処刑一歩手前で助かった経験を持つ2・28記念館の案内をされていた蕭錦文氏や、司馬遼太郎氏が『台湾紀行』を執筆するため台湾を案内された故蔡焜燦先生(「台湾歌壇」代表)の実弟で、白色テロで投獄10年の体験を持つ蔡焜霖氏、同じく白色テロで22年も投獄されていた故郭振純氏などから直接お聞きした体験談は、今に忘れられない。
折しも、昨年12月に景美人権博物館を蔡焜霖氏にご案内いただいた柘植康成氏が、蔡焜霖氏のお話を詳しく再録していた。白色テロについてこれほど詳しく紹介しているのはめったにない。かなり長いが、一気に読ませる迫力がある。
本会理事の加藤秀彦氏が「公式サイト」に掲載していたので下記にご紹介したい。景美人権博物館や関連の写真などは「公式サイト」をご覧いただきたい。
景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話 柘植 康成【加藤秀彦 公式サイト:2019年1月21日】https://kato-hidehiko.asia/taiwan-national-human-rights-museum/
2018年12月台湾訪問の際、蔡焜燦さん(2017年7月逝去)の息子さんで、物流業界で仕事をしておられる清水さんの紹介で、蔡焜霖さん(蔡焜燦さんのご実弟)をご紹介頂き、2018年5月にOPENした人権博物館(新店市)を2時間にわたりご案内頂きました。
以下は、蔡さんのお話を中心に、小職がほんの少し説明をつけたものです。台湾の事は多少は知っているつもりでしたが、ここまで人間の尊厳を踏みにじるような行為が、当時の台湾で行われていたとは全く知りませんでした(ウイグルでは、まさに現在、中国政府による100万人単位の弾圧が行われているようですが)。
是非、じっくりお読みください。内容に関するご意見、ご指摘は大歓迎です。
* * *
蔡焜霖氏について1930年台中清水生まれ。成績優秀で、高校時代参加した「読書会」が「共産党外郭団体」とみられ、1950年逮捕、緑島に送られ、「新生訓導処」(別名「緑洲山荘」)で10年過ごす。1960年出獄後、結婚。東方出版社に入り、子供向けの雑誌出版に従事。師範学校で教師の資格を取るも、「前科」の為、取り消される。その後、淡江文理学院の夜間部で学び、日本の漫画の海賊版の出来高払いの翻訳に従事(北京語は緑島で習得)。1966年に「王子雑誌半月刊」を創刊。1968年8月、世界少年野球で優勝した日本(和歌山)の選抜チームを7−0で下し、紙幣のデザインにもなっている「紅葉少棒隊」(ブヌン族)の支援も行う。国泰人寿教育センターを経て、国華広告で松下電器担当のコピーライターに。国泰美術館長、董事長秘書など。実兄は、司馬遼太郎を案内した「老台北」こと蔡焜燦氏。日本語は勿論完璧。
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1)台湾白日恐怖(白日テロ)の歴史
僕は高校を出て1950年に捕まった。台中の清水にいた時、彰化の憲兵隊が来た。最初に(萬華にあった)東本願寺(今の獅子林商業大楼あたり)に送られ、その後、軍法処看守所に送られ、禁固刑に処せられた。当時の軍法処は、今の台北シェラトンホテルの場所にあった。住所は青島東路3号。監察院の隣。軍法処は1968年にここ景美に移った。戒厳令が解除されたのが1987年。その後は「政治犯」はいなくなった。軍事裁判もなくなり、一時は撤去の話も出たが、呂秀蓮(1944年生。1979年の美麗島事件で逮捕。懲役12年で景美軍法処に収監。2000-2008年副総統)が、施設を残すことを訴え、2018年人権博物館としてオープンした。
(受難者の名前が刻まれた記念プレート前にて)
それぞれの名前の左上の数字は捕まった年、右の数字は白いのが出所、赤いのは殺された年(すべて銃殺刑)。浮き出ているのが終身刑。銃殺刑は昔の馬場町(今の青年公園の南側、新店渓北側の河原。記念碑あり。)と、安坑刑場(今の新店第三公墓)の二か所だった。受難者は、武器を所持していたのではなく、医者、教師、ジャーナリスト、若い学生などの知識階級による平和的な活動が殆どだった。
私が収監されていたのは1950〜1960年まで。但し、ここ(景美)ではなく、緑島にいた。景美ができたのは1968年。当時は、最初は青島東路の軍法処に入れられた。無期懲役が多かった。結果として30年以上過ごした人も多く、最長は34年7か月の林書揚。
ここには228事件の受難者は入ってはいない。白色テロは、戒厳令発布の1949年5月から始まり、戒厳令が解除されてもなお、1989年にはジャーナリストの鄭南榕(1947〜1989年焼身自殺)の一件もあった。当時すでに李登輝総統の時代になっていたが、雑誌に憲法を載せたということだけで反乱罪として逮捕しようとした。鄭はそれを拒否し、焼身自殺を行った。それを捉えに行ったのが、今回新たに新北市長となった候友宜(1957年〜、元内政部警察署署長)。鄭を捕まえるのに600人の警官を動員した。
この場所は日本時代何があったかは分からないが、当初は軍法学校だった。建物は1960年頃作られたのでは。今は公園のような平和な場所だが、昔は怖かった。
国民党政府が台湾にきたのが1945年。私は中学生だった。皆、大歓迎したが、それは瞬く間に失望に変わった。兵隊は、天秤棒で鍋や釜を担ぎ、歩きながら唾を吐いたり、手鼻をかんだり、我々は制服で、女学生はセーラー服で迎えにいった。そんな姿を見ても、大人は、「8年間も日本と戦ったのだから、疲労しているのは当然」と庇っていた。ゲートルさえ上手く巻けない兵隊も多くいた。くるぶしのところまで、緩んでずり落ちてしまっていた。私たちは、中学の頃からちゃんと巻いていたので、彼らよりずっと上手だった。するとまた大人たちは、「あれは、ゲートルの中に鉄板を入れ、鍛練しているのだ。戦争になったら(忍者のように)、壁にも屋根にも飛びあがれるのだ」と(笑)。
又、彼らは汚職まみれだった。役所で何かしてもらう為には、それまで日本時代にはなかった「紅包」が必要になった。又、インフレ(大陸での内戦用に物資を送った為、島内物価が急騰。1949年、4万元を1元とするデノミを実施、「新」台湾元が登場)もひどかった。1945年8月には米1斤(600g)が20銭。これが3カ月で60倍の12円になり、庶民の生活はとても苦しくなった。
1945年の終戦から1年半もしないうちに228事件が起こった(1947年)。はじめは、行政長官の陳儀は民衆と和睦するようなことを言っていたが、実は(大陸にいた)蒋介石に電報を送り、兵の派遣を要請し、3月基隆に上陸させ、無差別殺戮を行った。今でも伝えられているが、捕まえた台湾人の掌に穴をあけ、そこに針金を通して、何十人も岸壁に並べ、後ろから機銃掃射を行った。それと同じようなことを台湾全土でやった。それを「清郷」と呼んだ。そんなことで、それまで祖国に憧れを持っていた若い人たちが立ち上がった。しかし、決して武器を取るわけではなく、我々の台湾はどうするべきか、どこに自分の道を求めるべきか、などを語り合う勉強会が多く行われた。よく読まれたのは、中国ではやっていた魯迅や、1930年代左派の文学者の作品、毛沢東の「新民主主義理論」(1940年)などだ。
ところが、1949年5月に戒厳令が布かれて、出来たばかりの憲法も凍結し、非常事態ということで、スパイ、反乱を取り締まる条例が作られ、白色テロが始まった。それまで国民党政府の国際的立場は随分危うかった。1950年1月、アメリカトルーマン大統領が「台湾不干渉声明」を発表、国共内戦への介入(=汚職にまみれた国民党への支援)放棄を宣言していたが、同年6月、朝鮮戦争が勃発、共産勢力の拡大を懸念したアメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣した。蒋介石、蒋経国は、これにすっかり安心し、反体制派を次から次へと捕まえ、片っぱしから銃殺刑に処した。1950年から銃殺刑が急増するのはこのためだ。台湾の白色テロは朝鮮戦争がきっかけだった。事実、これより前に捕まった人たちは、死刑にはなっておらず、感化教育のみで釈放されている。
この戒厳令が1987年7月まで38年間続いた。蒋介石が死んだ1975年頃は、台湾は平和な時代に入りつつあったが、蒋経国は戒厳令を解除しようとしなかった。怖かったんだろう。また中国に戻って王様になりたかったんだろう。
戒厳令解除のきっかけになったのは、「江南案」と呼ばれる事件だ。ジャーナリストの江南(本名:劉宜良)は、『蒋経国伝』を書き、過去を暴いた。さらに、呉国楨(1903-1984年、1949年-台湾省政府主席)の伝記も書こうとした。内部事情を暴露されるのを恐れた蒋経国は、次男の蒋孝武を通し、国防部情報局長の汪希苓に命じ、有名な暴力団「竹聯幫」の陳啓礼らをアメリカに派遣、劉を暗殺した(1984年10月)。ところが、江南は台湾出身であるものの、既にアメリカの市民権を取った「アメリカ人」であったため、かつ、影には蒋経国の姿もあった事が明るみに出て、アメリカの非常に強い反発(台湾への武器供給停止検討)を招いた。言ってみれば、台湾の政府が、暴力団をアメリカへ派遣し、アメリカ国民を殺害したのだから当然だ。アメリカの対抗措置を恐れた蒋経国は、翌1985年、アメリカのタイムズ紙に「蒋家の子孫は今後中華民国の総統には就かない、又、総統は選挙によって選出される(国民代表大会による間接選挙)旨語った。
このあと、蒋経国は蒋孝武をシンガポールへ送り、リークワンユーに「シンガポール駐在商務副代表」として、その庇護を依頼している。このことを、台湾大学の歴史教授、陳翠蓮先生が詳しく書いている。
政府は、情報局長の汪(下写真参照)を終身刑に処し、ここ景美軍法処に送ったのだが、しっぽ切りにすらなっていないのは、一般の囚人のような監獄ではなく、寝室、応接室、書斎などもそなえた「別荘」に住まわせていた。おまけに1991年には減刑され「出獄」している。(人権博物館内に残っており公開されています)
2)逮捕〜取り調べ〜判決(禁固・死刑)まで
逮捕の後は、偵訊(取り調べ)〜審判(判決)〜服刑or槍決(銃殺)の過程がある。取り調べの段階では様々な拷問が行われた。
<灌辣椒水> 囚人を板に乗せ、手足を縛る、かかとのしたにレンガを入れ、高くし、膝の部分はきつく板に縛り付ける(これで既に激痛)。やかんに、唐辛子をたっぷり入れた水を用意し、口から流し込む。口にかかった布は濡れており、息は吐けず、吸う事しかできない。すると唐辛子水はどんどん胃に入り込み、激痛は全身から脳まで響いてくる。
<螞蟻上樹> 囚人をパンツ一枚にし、体中に砂糖水をかけ、手足を縛り、草地に放置する。蟻が集り、体中を咬む。余りの痛さにショック死するケースもあった。
<抜指甲> 囚人の爪をペンチではがす。なかには、この刑を避けるため、自ら爪を剥がすものもいたが、刑官の怒りを買い、太い針を、爪を剥いだあとの隙間に差し込まれるケースもあった。
<その他> 太い縄を腰より少し高い高さにしっかり張り、女性囚人の下半身を裸にして後ろ手で縛り、縄をまたがせ、刑官が左右両側から囚人を押さえつけ前後に動かす。縄は膣に食い込み、血は股を流れ、その痛みと恥辱に耐えかね、このあと自殺する者もいた。(人間の尊厳とは……柘植)
これらの拷問が行われたのが、最初に送られた、昔の東本願寺。ここが戦後、保安司令部の保安処となった。それと国防部の保密局、これは今は跡形もない。総督府の裏あたり、延平南路にあったが、ここでも同じような拷問が行われていた。
拷問は取り調べの段階で行われ、何の証拠のなかったが、自白書を無理やり作られ、その後、青島東路の軍法処(今のシェラトンホテル)で、判決を受けた。ここまで来ると拷問はない。判決が終わると、刑の執行がある。禁固は、当時は緑島。死刑(銃殺刑)になると、即、馬場町(今の青年公園南側)へ送られた。
(緑島の模型前で) 緑島の収容所は2期に分けることができる。これは第1期(1951〜1965年)のもので、牢屋ではなく、平原のような強制収容所だった。「新生訓導処」が正式名称で、「集中営」と呼んでいた。ここでは「労働改造」という仕事に従事した。今では跡形もない。ここには「3大隊」がいた。1大隊とは4中隊で、1中隊には130〜150人がいた。(今、島に残っている建物は、この頃のものではなく第2期の1972年の施設)ここでは、昼間は外へ出られた。
勉強もさせられた。三民主義や、孫文や蒋介石の教えを学ばされた。それまで勉強したこともなかったマルクス主義や毛沢東思想などの批判も勉強した。
島に上陸したのは1951年5月のことで、女性も30人くらいいた。台湾のモダンダンスの母といわれた蔡瑞月は、日本でモダンダンスを学び、台湾で広めようとしたら、「思想に問題あり」と見られ、島に送られてきた。子供が生まれたばかりだったのだが、母子は引き裂かれてきた。台湾大学病院の優秀な医者もいた。内科主任の、将来のノーベル医学賞の候補といわれた許強(1913-1950年)は馬場町で殺された。眼科主任の胡●麟博士は生き延びた(●=金の下に金金)。その他多くの医者がいた。
その頃、我々思想犯や、刑務所の長官などもそれらの先生に診てもらっていたが、そのうち、島の住人も看てもらいに来ていた。当時、こんな辺鄙なところに似合わない、先進的な医療が受けられる場所となっていた。
当時は電気も水道もない、渓流ひとつに頼り生活していた。川で水を汲み、食事を作った。畑を作り、豚や七面鳥(鶏の間違い?)など家畜も飼っていた。女性もいたが、あまり外出は許されなかった。その他、海で石を切り出し、居住区の石塀を作らされたが、これを「万里の長城」と呼んでいた。
この施設は15年ほど続いたあと、囚人は台東の泰源という監獄に送られたが、ここで1970年、蒋経国が初めてアメリカを訪問した年、台湾独立を目指す若者による暴動事件があり、1972年、再び、緑島に戻されたのだが、今度は24時間外出が一切できない、「緑洲山荘」と呼ばれる施設に押し込められた。これが戒厳令解除の1987年まで続く(下の写真)。
最後の政治犯となったのが、爆弾小包を謝東閔(台湾省政府主席)あてに送って怪我をさせた王幸男(1941〜)で、1977年から1990年までこの施設にいた。彼は出獄するとき、車を借りて島内を回り、小高い丘まで来て、眼下に広がる緑島と、遥か彼方に見える台湾本島と中央山脈を見て、「こんな美しい国の為なら命をささげても惜しくはない」と言った。
1950年代に捕まったのは、殆どが「アカ」のレッテルを貼られたものだった。が、逮捕の理由が、次第に「台湾独立」の色がでてくる。1964年9月、彭明敏、魏延朝、謝聡敏らが「台湾自救運動宣言」を発表し捕まる。謝のメモを、唯一日本人で服役していた小林正成(1933年〜)が秘密裏に持ちだし、タイムズ紙で発表されるに至り、それまで「台湾には政治犯はいない」としていた蒋父子のウソが明るみに出た。これにより、1970年代から、台湾島内にいた牧師やカトリックの神父、国際アムネスティなどの団体が、国内外から救援活動を始めるきっかけとなった。
(女性囚の写真を前に) この女性は銃殺刑にあった人だが、高等女学校を出たインテリだった。恋仲だった男は先に捕まり、女も結婚して子供ができた後捕まった。獄中で前の男と再会し、自分の髪の毛を男に託した。処刑の日、母と離れるのをいやがる子供を無理やり引き離され処刑された。男は出獄後、預かった髪の毛を、女学校の大木の下に埋めたという、辛い話も多くある。
(仁愛楼=獄舎、の入り口付近) 囚人の家族は、面会の時、この横の扉から入ってきた。従って、この道を「探親之路」と呼ぶ。入口には24時間衛兵が立っていた。
美麗島事件(1979年12月)で捕まった林義雄(1941〜)の母が、1980年2月27日、ここにきて、息子と面会した。痣だらけでやつれ果てた息子を見た母親は面会室から出てくると、慟哭し、叫んだ。「何故、無実のわが息子がこんな目に逢わねばならないのか!一体、何をしたというのだ!」
その翌日、警察によって24時間警備されていた「はずの」林義雄の家に何故か「賊」かが入り、地下室に逃げたこの60歳の母親と、7歳になったばかりの愛くるしい双子の娘(下の写真)の命を奪った。母親はなんと13か所もの刺し傷、切り傷があった。一階にいた9歳の姉は、6か所もの傷を負ったが、奇跡的に一命を取り留めた。犯人は未だ分かっていない。(蔡氏、慟哭)
<参考> 事件後、収入が途絶えた林家は、この自宅(信義路3段31巷16号)を売却しようとしたが、皆怖がって買い手がつかない。これを見た長老教会が募金を呼びかけ、この場所に「義光教会」を設立した。
奇しくも、2月28日の出来事。我々は2回目の228事件、と呼んでいる。これが台湾の歴史だ。勿論、国民党の仕業とは断定できないが、24時間警備体制にあった敷地内に忍び込み、これだけの殺傷をやって逃げているのに、犯人は不明、というのがこの台湾の現実なのだ。
ここの獄舎は「仁愛楼」という名前がついている。そして緑島の24時間外出禁止の獄舎は「緑洲山荘」。中国人の感性がうかがい知れる。無辜の民をこんな目に会わしておいて、何が仁愛だ、山荘だ!
(青島東路の軍法処模型前で) これが、我々の時代の軍法処の模型だ。先ほど話したように、最初に東本願寺に送られた。日本時代は立派なお寺だったが、戦後、本殿を小さなブロックに分け、9月中秋節の頃、ここに送られた。その後、国防部保密局を経由し、10月初旬、軍法処に送られ判決となった。入口にコスモスの花が咲いていたのを覚えている。
元々大きな倉庫で、2階建てで窓はなかった。模型のように、左右2つの区に分けられ、40位の部屋(牢屋)に分かれていた。1つが約6坪位の大きさで、そこに20〜30人押し込められた(=約2.5人/畳1枚)。私は5号室で、ここには28人入っていた。トイレも窓もなかった。天井には20ワット(かなり暗い電球)くらいの電球が一つ垂れ下がっていた。
空気は淀むので、真ん中に毛布を吊り、それを交代で揺らし、少しでも空気の動きを作ろうとした。トイレの代わりに、「便桶」が一つ置いてあり、新入りはこの横が寝場所になった。1人死刑になると、寝場所が少しずつ、いい場所に繰り上がっていく。足は伸ばせず、曲げて寝ていた。10月から翌年の1月までここにいた。その後、新店の映画館を改造したところに送られた。当時は、軍の倉庫、映画館、学校などが全部監獄にされていた。
イワシの缶詰、というが、イワシは尾鰭を全部伸ばせているので、我々よりましだった。その後、緑島に送られた時は、足を伸ばせて寝ることが来たので、それは気持ちよかった。
怖かったことは、早朝の憲兵の足音だ。部屋の外の鉄門がギーッと開き、足音が近づいてくると皆一斉に目を覚ます。恐怖の時間が来る。入ってきた憲兵は、囚人の名を呼ぶ。呼ばれた者はその日のうちに、刑場の露と消えた。何回もそんなことを経験した。
ある日、18歳の誕生日を迎えたばかりの青年が、向かいの牢屋から出てきて、我々の部屋の格子に掴まり、「先輩方、お世話になりました。お先に失礼します。」と挨拶に来た。まだ声変わりして間もないような、でも体格のしっかりした青年だった。
後で聞いた話だが、その青年は名前が呼ばれると顔色が変わり、それでも健気に身支度し、母の写真を取り出し、「お母さん、すみません、先に参ります。」と挨拶し出て行ったそうだ。私より2つも若い子が死刑になるなんて、死神も自分のところの近くまで来たのか、と思った。
多くの人が、早朝点呼で呼ばれ、身支度し、出て行く時、我々は安息歌、鎮魂歌を歌ってあげた。あなたが流した血は道を照らし、我々はそれを又、中国大陸で多くの大学生が殺された時、それを追悼する歌だった。
時には、先輩の中には、日本教育を受けていた為、早くから覚悟を決め、家から真っ白なシャツを持ってきて、「逝く時は真っ白なシャツに真っ赤な血を流すんだ」と言っていた者、短歌を詠む者など、ロマンチックな死に方をした人も多くいた。
処刑の時は、呼ばれていくと、がんじがらめに後ろ手に縛られ、胸に名前を貼られ、処刑前・後の写真を撮られる。その写真は、保安司令部〜国防部を経由し、総統府まで届けられ、蒋介石自身が確認する。大陸で多くの部下の寝がえりに会い、共産党に負け、台湾に逃げてきて、人を信じることが出来なくなっていたのだろう。時には、20人のうち、例えば死刑が5人だと、それに満足せず、「12年以上は全部死刑」、とか、又、特定の人を指定し、「こいつは死刑!」とか「こいつは何故死刑にしないのか」などと赤い筆で指示を書いたりしていた。「軍法」に基づいた判決なのだが、実際には蒋介石の意見で殺された人も多くいた。
私は1950年、20歳の誕生日を、シェラトンホテルの地で迎えたのだが、今でも自慢している。誕生日は、5つ星のホテル(軍法処)で、何百人ものお客さん(囚人)にお祝いしてもらったと(笑)
この軍法処が1968年、ここ景美に来た。ここには洗濯工場があった。アイロンかけもやっていた。
当時、総統府に機密室があった。その資料組の主任が蒋経国だった。彼は、情報組織と軍を一手に収め、そこから意見が出てきて、蒋経国から蒋介石に上がっていたかもしれない。総統府に行く前に、作戦部があったが、ここの主任も蒋経国だった。国防部でも、蒋経国の部下から意見があがり、国防部長も認め、総統府に送られた。従って、すべての情報機関は蒋経国の支配下にあった。その次男、孝武(1945〜1991年)も蒋経国に習い、国防部の情報機関にいたが、父と同じように情報組織を抑えていたら、蒋経国の後を継いでいたかもしれなかったが、早まって暴力団をアメリカに送ってしまったことが裏目にでて、夢は破れた。それがなかったら、後を継ぎ、台湾は北朝鮮のようになっていたかもしれない。
(売店にて) ここが売店。囚人は自由に買い物は出来なかった。欲しいものがあると紙に書いて、外役(雑役に従事する囚人)に頼む。外役はまとめ買いして、囚人に分配した。
(面会室にて) 差し入れをするときは、ここで登録した。差し入れの品は厳しくチェックされた上で囚人に届けられた。果物などは、切られて中身も確認された。判決を待つ人、判決がでた人は面会が出来る。登録後、面会室で面会する。囚人とはガラス越しに電話で会話をする。面会は10分に限られていた。言葉も北京語のみで、台湾語や日本語は硬く禁止されていた。我々の時代は戦争が終わったばかりで、まだ北京語が十分できない人も多かった。
青島東路の軍法処にいた時、印象に残っているのは、基隆高校(台湾省立基隆中学)の校長をしていた鐘浩東(1915〜1950年)だ。
早朝の点呼で呼ばれ、死刑にされたが、彼は以前から「俺が行く時は安息歌のような悲しい歌は歌わないで、幌馬車の歌、を歌ってくれ」(これだって十分悲しい)と言っていた。彼は、李登輝と同様、台北高等学校を出て、その後明治大学を卒業、台湾へ戻り、蒋渭水(1890-1931年、台湾の社会運動家)の娘と結婚した。熱血漢で、奥さんと中国に渡り抗日運動をやっていた。向こうで憲兵に捕まり、学歴の高さから日本のスパイと勘違いされ、あわや銃殺されそうになったが、台湾から来ていた丘念台(広東出身の台湾客家人)に助けられた。戦後、台湾に戻り、高級官僚にもなれたのだが、官を嫌い、教育の道を選んだ。生徒から慕われた校長だったそうだ。国民党の堕落に怒り、ガリ版で新聞(「光明報」)を作り、政府批判を行い、捕まった。
私は、「幌馬車の歌」は、日本人の叔母から習い知っていた。鐘浩東が牢から出されるとき、多くの部屋からこの歌が聞こえてきた。どんどん声が大きくなり、泣きながら歌っている人もいた。私が、青島東路の軍法処に来て間もないころだ。
因みに「非情城市」(1989年、監督:候孝賢)でも「幌馬車の歌」が出てくる(映画の1h-41m-22sシーン)が、これは間違い。この映画は228事件(1947年2月)を扱っており、この頃は、まだこの歌は獄中で歌われていない。1950年10月に鐘浩東の為に皆が歌ったのが始まりだ。
鐘浩東は、1949年に捕まり、最初は内湖の国民学校に送られ、感化教育を受けた。中国で抗日活動を行い、「祖国」の為につくしたのが評価された。始末書(反省文?)を書けば許してやる、と言われたらしいのだが、私は最後にみんなと歌でお送りすることができ光栄だった。
(軍事法廷にて) ここは秘密(非公開)裁判が行われた軍事法廷。家の人は掴まってから、ここへ送られるまでどこへ送られているのか分からない。取り調べや拷問に合っているときは、家の人は自分の子供が、1年も2年も、どこで何をされているのか全くわからない。ここにきて、判決を受けるとようやく手紙を書くことができる。私も、青島東路の軍法処に来てから初めて家に手紙を書いた。
判決前から差し入れはできるが、面会は判決後しかできない。
この軍事法廷の建物は、いくつかの部屋に分かれている。各部屋に壇があり、裁判官、検察官は上、囚人はもちろん下だが、1968年から付くようになった公設弁護人も下。普通は、弁護人と検察は同じフロアに座るのだが、軍事法廷では違った。また、弁護人といっても刑を軽くするのではなく、自白を強要するようなことが役割だった。ここにあるようなベンチはなかった(非公開だから見に来る人はいない)。
国民党に情報公開(「転型正義」)を請求しているが、なかなか出てこない。林義雄のお母さん、娘さんが殺害された「林宅血案」の件も真相は今でも闇の中だ。24時間、警察が監視していながら何故そんなことが起こったのか。もし当時の国民党の文書や、蒋経国のメモでも出てくれば何かわかるかも知れないが……。
(美麗島事件の法廷にて) 1979年12月10日、高雄で美麗島事件が起こった。当時、アメリカや世界各国から、又、国外にいる台湾のエリート達からも蒋経国に、公開裁判や死刑反対の意見がだされ、最終的に美麗島事件は公開裁判となった。美麗島事件はその点で幸運だった。海外からの圧力がなければ、我々の時代と同様、秘密裁判だったかもしれない。政府は、この事件で民主化の動きを一網打尽にしようとしたが、逆に公開裁判とせざるを得ない状況となった。
相変わらず検事と裁判長は上で、弁護人は下だが、この裁判では、弁護人は、公設ではなく、のちに総統となる陳水扁や、駐日大使の謝長廷らの民間弁護人が弁護を務めた。傍聴席が出来たのも、この美麗島事件が公開裁判となったことの成果だ。
(後ろに貼ってある)写真には、起訴された8人のうち、7人しか写っていない。林義雄は、母子殺害事件の処理の為、一時釈放されていたからだ。呂秀蓮、陳菊もいる。施明徳は笑っている。後ろにいるのは憲兵。傍聴者は海外からも来て、連日メディアで報道された。
今まで、暴動だと思っていた人々は、施明徳らが、台湾の発展を心から願い、自分たちの考えを堂々と語ることに感銘を受け、政府の(民主化を抑えようとする)狙いとは逆に、民主化の動きが一気に高まった。施明徳などは英雄視されるようにすらなった。
悪いことをしたやつをかくまった「別荘」、軍事法廷や、仁愛楼、美麗島事件の公開裁判を見ると歴史の流れが見えてくる。一般的に、蒋経国はオヤジよりも開明的で民主的だと言われているが、蒋経国こそが白色テロの張本人である。
今日はここお越し頂き本当にありがとうございました。時間があれば是非緑島の方もご案内させていただきます。
以 上