台北へのセンチメンタル・ジャー二一-速水和彦氏のことなど(3)[立石昭三]

台湾では今でも尊敬されている日本人が少なくない。先般、本誌でも鳥居信平(とり
い のぶへい)について紹介した平野久美子さんの講演会を紹介したが、この鳥居信平、
八田與一、後藤新平、児玉源太郎、明石元二郎、羽鳥又男など、数え上げれば切がない。

 その中に、速水和彦(はやみ かずひこ)もいる。速水は台湾鉄道の近代化に偉大な
功績を残した鉄道技師で、今でも台北市松山にある「台北機廠」には速水の胸像が展示
されている。中国国民党による白色テロ時代は、速水を尊敬する台湾の人々がその胸像
を倉庫に隠して保管していたというエピソードも残っていて、八田與一の銅像秘話を思
い出させる。

 最近刊行された「榕樹文化」第22号に、京都で病院を経営され、速水和彦の姪を妻と
された医師の立石昭三氏が「台北へのセンチメンタル・ジャー二一(速水和彦氏のこと
など)」と題して、速水和彦との交流の一端をつづられている。

 日本へ帰国する船でご一緒した速水和彦が船中で亡くなっていたことを初めて知った。
縁者でなければ紹介できないエピソード豊かなエッセイだ。

 著者の立石昭三氏及び「榕樹文化」の内藤史朗編集長の許可をいただいたので、ここ
に3回に分けてご紹介したい。なお、読みやすさを考慮し、適宜、改行していることを
お断りする。今回が最終回です。                    (編集部)

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■速水和彦氏・略歴
 明治22年、北海道に生まれる。父速水経憲は通信技手。母はゑい。明治28年、経憲は
 電信技手として、北白川能久親王に仕え、台湾へ渡る。妻子もその頃台湾へ渡る。小
 学校は、台北では総督府立小学校として、第一尋常高等小学校が唯一の小学校だった。
 中学は府立台北中学(台北一中の前身)が出来るが、和彦氏は滋賀県立膳所中学へ進
 学、更に第三高等学校へ進んだ。京都帝大工学部を卒業し、上海の商社へ就職したが、
 直ぐに父に台湾に呼ばれて、台湾総督府交通局鉄道部へ鉄道技師として就職した。終
 生技師であったが、終戦当時は二千人の部下がいた。生涯クリスチャンであった。
                                 (立石昭三氏)


台北へのセンチメンタル・ジャー二一(速水和彦氏のことなど)【3】

                                  立石 昭三

 引揚後、私は医師となって京都や滋賀また第三世界でも働いたが、段々日本の経済的
地位も上がり、周りに戦争の影響が少なくなってくると、またまた台湾との縁が復活し
てきた。

 1980年に一度、台北を訪れたが、この時は速水和彦氏の姪で今は私の妻、恭子が引き
揚げるまで育った鉄道官舎を訪れ、子どもの頃思っていたほどには家の前の道路が広く
はなかったことを実感した。小学校の同窓会も嘗ての小学校訪問が旅程に入る様になっ
た。台湾の人たちも日本時代の古いよき時代を偲ぶ出版も許されるような時代になった
(文献10)。

 今回、2007年10月の台北訪問は嘗ての引揚船、日本丸で同乗して帰国した高野秀夫氏
のお誘いによる。高野氏他数人は台南から今や台湾の鉄道の要となった新幹線で北上し、
一方、私どもは昔の同級生にも会い、画廊巡りをしたりして日程を調整し、台北で共通
の一日を過ごした。小学校の同級生、楊星朗君は事務所のあるアメリカのラス・ヴェガ
スから空路、駆けつけてくれ、彼の父親の楊三郎美術館を見せてくれた。

 今回の台北訪問では高坂先生のお嬢さんとそのご主人、李遠川先生によるご案内で、
台湾大学における高坂記念館の完成と李先生のお父上の李沢藩先生、生誕百年展の見学
が中心であった。李先生の個展(文献8)は故宮博物院で開かれていたのである。

 台北は前回に来た時より一変し、101タワービルから見る観音山、七星山、大屯山、
親指山は変わらないまま大都会となっていた。2度目の101ビル訪問では、ほぼ真下に「松
山台北鉄路工廠」とあるのが見え、ここを訪問することにした。

 ここは以前の鉄道工場でもあるが、今は台湾鉄道関係の博物館のようになっている。
以前、京大医学部衛生学教室に留学していた郭恵二氏の根回しもあって、ここでは家内
を速水和彦の姪だと紹介すると、すんなり通してくれた。

 写真は家内の伯父のトルソーである。トルソーの横には和彦氏の功績も記され、信義
を重んじる台湾の人の、心の広さに打たれた。

 台湾大学訪問では、父、立石新吉の筆跡にも接する事が出来たし、子ども時代におな
じみの懐かしの小鳥、ペタコの鳴き声も聴けて嬉しい台北再訪であった。最後の日に私
どもの住んでいた昭和町、現在の温州街の日本家屋を見たが、大分はビルの問に取り残
され、もうかなり老朽化していたが、私どもの共通教室としていた独身官舎は健在であ
った。

 一日、台北市内の大病院、馬偕病院の血液部門を訪れた。ここには数千人の台湾人の
白血球DNAを集めているが、それらのデータから民族の軌跡を追うことが出来るとい
う説明を聞いた、台湾人は大陸の漢民族とは違い、むしろシンガポールなどの東南アジ
アの華僑に近いことも知った。遺伝学的にも歴史も言語も台湾の[門の中に虫]南人は
漢民族とは異なるので、中国政府も台湾を軍事的に併合しようなんてことを言わないほ
うが大国らしい、と思う。                       (終り)

 以下の文献は文献4,8、9,10を除き、他は高野秀夫氏のご好意による。

文献1;高野秀夫「台湾省留用日僑子女教育班(1947〜49年)」。2006年、麗正会(台北
    一中同窓会誌)
文献2;李遠川ジョンズ・ホプキンス大教授著「高坂知武記念館」。日本エッセイスト
    クラブ95年版、ベストエッセイ集、文芸春秋1995年10月号
文献3;山根甚信「去りぬるを」。Private press 1957.8.4
文献4;立石鉄臣「立石鉄臣、台湾書冊」。台北県政府、劉峰松他編。1997年6月
文献5;金関丈夫「すれ違い」。台湾青年27号 1963.2.25
文献6;金関丈夫「カーの思い出」。沖縄タイムス 1956.9.15
文献7;加藤昭三(清水高等水産学校昭和24年卒、練習船船長、航海訓練部長等を経
    た)「シージャックと速水氏の水葬」千葉宗雄監修「練習帆船・日本丸」原書
    房 1984.8.9
文献8;張芳慈「李澤藩的絵画空間表現」財団法人李澤藩記念芸術教育基金会 2007年
    3月
文献9;林彦卿「非情山地」先鋒電脳排席版印刷有限公司 1993年4月
文献10;蔡焜燦「総合教育読本、復刻版」産経新聞 2007.4.21