中国相手に一歩も引かない痛快な国、リトアニアの正体 神田 憲行(ノンフィクションライター)

 本日はもう1本、リトアニアについて伝える記事をお届けします。ノンフィクションライターの神田憲行(かんだ・のりゆき)氏の記事です。

 いまから30年前に行ったリトアニアで体験したことをつづっているのですが、そこから浮かび上がってくる台湾の人々にも通じるリトアニアの人々の「正直さ」や、ソ連からの弾圧を忘れず、独立したことを誇りにする当時の若者たちを紹介しています。

 神田氏は「ノーロシアだ」と言って人差し指を振った若者たちの住むリトアニアについて「正論をたてて一歩も譲らない小国の意地、痛快ではないか」と結んでいます。

 それで思い出したことがあります。

 蔡焜燦先生も黄昭堂先生もまだまだお元気だったころのことです。蔡先生に催していただいた宴席でみなが「乾杯」と日本語で杯を挙げ、中には「カンペイ」と中国語で杯を挙げる人たちもいました。すると、一呼吸おいて黄昭堂先生がニコニコ顔で「台湾では乾杯のことを『ホッターラ』と言うんですよ」と言われた。すると、どこからともなく大声で「ホッターラ」という声が挙がり、この一言でおおいに盛り上がったことを思い出しました。

 いま思い返せば、リトアニアの若者たちと同じ思いで黄昭堂先生もおっしゃったのかもしれない。亡くなられるまで台湾独立建国聯盟の主席をつとめられた黄昭堂先生は、日本人に台湾へもっと思いを寄せてもらいたいという思いが「ホッターラ」という言葉となって突いて出たのかもしれません。

 その後、黄昭堂先生や蔡焜燦先生など台湾の方々がいる席では、必ず「ホッターラ」という乾杯の声が挙がるようになりました。

 このささやかなエピソードは、神田氏が30年前のこのリトアニアの若者の一言をいまだに忘れられない思いと一脈通じるかもしれません。

—————————————————————————————–中国相手に一歩も引かない痛快な国、リトアニアの正体 私が知っている「小国の意地」 神田 憲行(ノンフィクションライター)【現代ビジネス:2021年12月30日】https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91041

◆連崩壊の過程でも、もっとも早く独立

 口約280万人のヨーロッパの小国が大国・中国相手に大立ち回りを演じて、世界の注目を集めている。その国はバルト三国のひとつ、リトアニア。かつてはちょうど30年前に消滅したソ連邦の構成国のひとつで、現在はEU加盟国だ。日本との関係で言えば、第二次世界大戦中にこの地に赴任していた日本人外交官・杉原千畝氏がユダヤ人に発給した「命のビザ」が有名である。

 トアニアが中国に決闘の手袋を叩きつけたのは今年5月のこと。議会が中国の新疆ウイグル自治区での人権問題について「ジェノサイド(大量虐殺)である」と決議した。さらに中国が中・東欧で進める経済構想圏から離脱した。

 さらに中国を苛立たせたのは、台湾と急接近していることだ。2021年7月には台湾がリトアニアに事実上の大使館に相当する機関を設置することを発表、リトアニアも台湾に同様の機関を置くと発表した。蔡英文総統が就任して以来、ここ5年間で台湾は中国の戦狼外交によって7ヵ国との外交関係を失っていた。そこでいきなりリトアニアだ。台湾がヨーロッパに代表機関を置くのは18年ぶりという。蔡総統の右腕である陳建仁・前副総統はリトアニアを訪問して「リトアニアは自由と民主主義の先駆者だ」と称賛したという。

 もちろん中国も反発を強めている。まずは駐リトアニア大使を召還し、中国にあるリトアニア大使館の名称を変更して外交上の「格下げ」にしたという。さらに12月21日のロイター電によれば、多国籍企業に対してリトアニアとの関係を絶たなければ中国市場から閉め出すと圧力を掛けているという。

 リトアニアがこれほど中国と対決姿勢をとるのは、中国がロシアと接近していることの警戒感がある、という。両国とも強権主義の国であり、リトアニアはかつてソ連に併合された歴史もある。だから30年前のソ連解体の過程でもっとも早く独立宣言をしたのはリトアニアだった。

◆1991年、空港での鮮烈な記憶

 この経緯を見ながら、「あの人たちらしい」と、私はリトアニアの人々を想い浮かべた。いや別に詳しいわけでも知人がいるわけでもない。縁があったのは30年前の1991年12月30日から3泊4日、リトアニアの首都ビリニュスに旅をした経験があるだけだ。だがその4日間を私は今もときおり記憶の棚から取り出して眺めるほどに気に入っている。

「一応、飛行機とホテルの予約はできるみたいですが、入国の条件についてなにもわかりません。最悪追い返されてもいいなら手配しますよ」

 旅行代理店からそう念を押されたが、私は迷わず1週間分の航空機代とホテル代を合わせた旅行代金40万円を振り込んだ。貯金は空になった。

 東京を立ってモスクワで2泊して、リトアニアの空港に着いたのは1991年12月30日だった。着いて拍子抜けした。飛行機のタラップを降りると迎えの人たちがすぐ下まできていて、イミグレも税関もなにもないのだ。「追い返される」どころか放置だ。だがすでにリトアニアとロシアは別の国になっていたから、帰りのモスクワで言いがかりを付けられないためにイミグレを通過した「証拠」がほしい。

 空港内の事務所のようなところに押しかけて、パスポートを広げて「ビザ!ビザ!」とわめいたら、制服を着たおじさんがリトアニアの国章を模したスタンプを押してくれた。次に「ハウマッチ?」と尋ねると、おじさんたちが相談しはじめた。そして「ファイブ ダラ〜?」と半疑問形で言ってきた。5ドル払ったが、たぶんビザ代も決まっていなかったのだろう。あとでなぜ5ドルなのか考えたが、その場におじさんが5人いたから山分けなんだろうと思いついて、笑った。

 この国の人は信用できるかも知れない、と私に思わせたのは路上のテープ売りだった。市販のテープにリトアニアのロックを録音して売っていた。値段を尋ねると、黒いジャンパーを来たたぶん10代くらいの男の子が「ワンダラー!」と指を1本立てた。私が財布から金を取り出そうとすると、すぐ横にいた親方みたいな年配の男性がその子を制して、「ワン、ルーブル」と言い直した。そのころ公定レートは「1ドル=1ルーブル」だったが国の解体で誰もそんなものは信じておらず、私もモスクワのベトナム人闇両替屋で「1ドル=130ルーブル」で両替していた。そのころ1ドルは約130円だったから、1ルーブルはほぼ1円である。

 もちろんそんなことはリトアニア市民も知っていただろう。だから最初に「1ドル」と要求したのである。親方がそれを制したのは、事情を知らない外国人客相手につけ込むような商売をしたくなかったからか。たったそれだけのことでも、その前のモスクワ旅で刻まれた私の眉間のしわをほどくのに十分だった。

◆一歩も譲らない国

 モスクワではホテルの朝食会場に入るのもひと苦労だった。会場前のドアになぜかおばちゃんが頑張っていて、「ひとり10ドルくれないと入れない」と通せんぼした。朝食代は部屋代にインクルードされているのに。仕方なくみんな10ドル払うと、なかには黒パンの他にジャムとコーヒー、オレンジジュースしかなかった。ホテルや街のあちこちで理不尽な目に遭わされるたびに、「ロシアンクレイジーシステム」と言われた。だがビリニュスのホテルでは当たり前だがそんな「関所」はなく、ハンバーグも目玉焼きもふんだんに置いてあった。

 レストランでは初めてリトアニア語も教わった。少しの前菜とステーキ、コニャックがついたセットメニューが80ルーブル。公定レートなら80ドルだが、実質は80円だ。食事後に煙草をくゆらせていると、近くにいた若い人のグループのひとりが、「1本くれないか」と話しかけてきた。あげると彼らのテーブルに誘ってくれた。お互いカタコトの英語での会話だが、酒も入っていて、なかなか愉快だった。店を出て彼らにロシア語で「スパシーバ(ありがとう)」といとうと、リーダー格らしい長身の男性がきりっとした表情を見せた。

「リトアニア語でアーチュウというんだ。アーチュウ。ノーロシアだ」

 彼はそう言って人差し指を振った。

 彼らは今はもう50代になって社会の中核をになっているだろう。日本人の若者と煙草を分け合った一夜など忘れているに違いない。だが人差し指を立てて「ノーチャイナだ」と言っててほしい。正論をたてて一歩も譲らない小国の意地、痛快ではないか。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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