http://sankei.jp.msn.com/life/news/130228/art13022808070002-n1.htm
自分と同年輩の人の死亡記事が気になるのは年齢のせいだが、ある人を偲(しの)ぶ会
から帰り、家に一歩足を踏み入れた途端に中嶋嶺雄先生が亡くなったとの知らせには茫然
(ぼうぜん)とした。
別段そのために意見を交換したわけではないが、日中国交正常化の過程、「平和的台
頭」をするはずの中国が「危険な台頭」に転じたこと、ピボット(軸足)をアジアに移す
と公言した米国が抱える国民の内向き志向と国防費を大幅に削減しなければならない事情
などで、中嶋先生と私はほぼ同じ見方をしていた。だから、尊敬する同志を突如失った悲
しみだ。いや、静かに考えてみると、日本は激変する国際情勢の中で重要な一人の舵(か
じ)取りを失ってしまったのかもしれない。
1971年7月15日、ニクソン訪中発表で日本が「ニクソン・ショック」を受けた日に私はワ
シントンにいて世界の秩序を一夜にして変えてしまうこの大発表を聴いていた。このあと
日本に生まれた「バスに乗り遅れるな」の大合唱は政財官界を包み、マスコミが音頭を取
った感があった。田中角栄首相は翌年に日中間で国交を樹立してしまうが、米国はカータ
ー政権が8年後の79年1月1日に米中間で国交樹立を果たす。中国をめぐって日米間の呼吸は
以来必ずしも合わなくなった歴史的事件だと思う。
79年から80年にかけて私はワシントンのウッドロー・ウィルソン国際学術研究所でこの
問題を研究していた。最大の助言者になってくれたのは米国の中国問題研究者のハリー・
ハーディング氏だった。ハーディング氏と旧知の仲だった中嶋先生はこのころワシントン
を訪問され、米国の対中関係に関する広範な調査を手掛けられ、わが家を訪れてくださっ
た。当方の勝手な思い込みかもしれないが、私は同憂の士を得たと考えてきた。
名著『北京烈烈』以降の中嶋先生の業績に少なからぬ関心を抱いた人物は台湾の李登輝
氏であった。李氏は副総統時代に中南米諸国訪問の帰途東京に立ち寄り、中嶋先生と意見
を交換している。
国際法上も道義上も理不尽な道をたどってきた台湾に対する深い同情と言っていいだろ
う。20年にわたって中嶋先生は日本と台湾の間で知識人間の率直な意見交換の場「アジ
ア・オープン・フォーラム」を続けた。両国間の有形無形の紐帯(ちゅうたい)がどれだ
け強まったか。中嶋先生ご夫妻は外務省の陰湿としか言いようのない妨害を打ち破って
2007(平成19)年には李登輝夫妻の訪日を実現した。
戦前に日本の民間人の中にはアジア独立の志士を匿(かくま)い、支援した人がいた。
私は、当時北京へと草木もなびく風潮の中で日台関係の重要性を説き、具体策を実行した
中嶋先生に日本人の義憤と侠気(きょうき)を見ている。
東京外国語大学長、文部科学省中央教育審議会委員としての知識を秋田の国際教養大学
に生かし、大成功を収めつつあるときに逝った先生に悔いはないと思う。
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国際教養大学長の中嶋嶺雄さんは14日、肺炎のため死去した。76歳。
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【プロフィル】
田久保忠衛(たくぼ・ただえ)昭和8年、千葉県生まれ。早稲田大法学部卒。博士(法
学)。時事通信社外信部長、編集局次長を経て、杏林大学社会科学部教授。専門はアメリ
カ外交、国際関係論。平成8年、正論大賞受賞。著書に『戦略家ニクソン』『激流世界を生
きて』など。