台湾の最南端にある屏東県は日本と縁が深い。日本が台湾と初めてまみえた地が屏東だ。宮古島の人々54人が犠牲となった「牡丹社事件」の地で、1874年の台湾出兵の原因をなし、日本が台湾を領有する発端だった。
日本統治時代、鳥居信平(とりい・のぶへい)が林辺溪の伏流水を利用して農業用水を供給する地下ダムをつくり、屏東平原を潤したことでも知られる。地下ダムは李登輝元総統が生まれた1923年(大正12年)に竣工、翌年には開墾地まで灌漑用水路も整備され、1万7,000ヘクタールにも及ぶ農地を生みだした。
日本統治時代末期、竹田郷に野戦病院の院長として赴任した池上一郎博士が戦後に蔵書を寄贈したことがきっかけで「アジア最南端の日本語図書館」とも言われる池上一郎博士文庫が屏東線竹田駅の隣に設けられている。池上文庫理事長の劉耀祖氏が昨年秋の叙勲で旭日双光章を受章されたことでも知られる。
本会でご案内の台湾産アップルマンゴーも、6月末から7月初旬にかけては屏東産のマンゴーだ。
近年は屏東といえば本マグロの水揚げでもよく知られる。その本拠地が東港だ。東港といえば、本会初代会長の阿川弘之氏が昭和17年暮、海軍士官になるための基礎教育を受けた海軍航空隊があったところだ。このマグロ漁業の技術を伝えたのが鹿児島県の人々だと言われる。
台湾の駐日台湾代表処の「台湾週報」が伝えるところによれば、「昨年5月、日本の鹿児島県に嫁いだ屏東県出身の女性から、現地で防疫物資が不足しているとの連絡を受けた。潘孟安県長(=県知事)の指示を受けた県職員たちが直ちに医療物資を集め、鹿児島県に送った」そうで、これがきっかけとなって屏東県と鹿児島県の交流が始まったという。
鹿児島県の塩田康一(しおた・こういち)知事は大の台湾好きと仄聞し、屏東県県長の潘孟安氏も親日派と漏れ聞く。両県が姉妹都市など都市間提携にまで伸展することを願いつつ、下記に「台湾週報」を紹介したい。
—————————————————————————————–屏東県が防疫物資を寄付、鹿児島県との教育交流につなげる【台湾週報:2021年1月29日】https://www.taiwanembassy.org/jp_ja/post/76580.html
屏東県(台湾南部)は昨年5月、日本の鹿児島県に嫁いだ屏東県出身の女性から、現地で防疫物資が不足しているとの連絡を受けた。潘孟安県長(=県知事)の指示を受けた県職員たちが直ちに医療物資を集め、鹿児島県に送った。「雪中送炭(=雪中に炭を送る。つまり、相手が最も困っている時に救いの手を差し伸べること)」の行為は鹿児島県を感動させ、これがきっかけとなって両県の交流が始まった。
国立東港高級海事水産職業学校(屏東県東港鎮)と鹿児島県立鹿児島水産高等学校(鹿児島県枕崎市)は27日、リモート交流を行った。日本側は台北駐福岡経済文化弁事処(=福岡における中華民国領事館に相当)、鹿児島県日台友好議員連盟の議員、台湾側は屏東県伝播?国際事務処(=広報や国際交流を担当する部署)の蕭裕隆副処長などが同席した。
両校の生徒たちは水産分野における経験を共有し、船用機関、海洋技術、食品加工など共通の学科同士の交流を深めていくことで一致。台湾側はまた、新型コロナウイルスの終息後、鹿児島の生徒たちが屏東県を訪れ、両県の友好をさらに強められるよう期待を寄せた。
「世界のどの都市にいようとも、屏東県出身者にとって屏東県は永遠にふるさとだ」と屏東県伝播?国際事務処の蕭裕隆副処長が話すように、屏東県はこれまでも防疫物資の寄付を通して海外在住の屏東県出身者を支援してきた。
世界が感染症のパンデミックという未曽有の危機に直面する現在も、国際友好の精神を発揮し、心を合わせて協力し、新型コロナウイルスと戦っている。そして、世界に台湾の存在感を、日本に屏東県の存在感を示すことで、教育・文化分野での交流につなげている。蕭裕隆副処長は、これからも「Pingtung can help(=屏東がお手伝いできます)」のスローガンを実践に移していきたいと意気込みを見せている。
鹿児島県は九州最南端に位置する。主な産業は農業や牧畜で、鹿児島県産の黒豚や黒牛といえば世界的にも名前が知られている。屏東県と産業構造が近いことから、防疫物資の寄付をきっかけに、両県の交流がスタートした。屏東県は、鹿児島だけでなく、米国、ペルー、ブラジルなど各国に物資を寄付し、新型コロナウイルスのパンデミックという危機の中で屏東県の存在をアピールしている。
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