――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港64)
大橋が香港を訪れた1900(明治33)年は、イギリスが新界を99年期限で租借した1898年から2年後になる。1901年の香港の人口は300,660人。新界が含まれたことで人口も増加する。さて300,660人の中には、大橋が目にした「日本の醜業婦三人」も数えられていたのだろうか。
さすがに小説家であるだけに、大橋は「実に香港は人生の小劇場」と香港を文学的・情緒的に眺めた。これに対し明治・大正・昭和を代表するジャーナリストの長谷川如是閑(1875年~1969年)は、当然のようにジャーナリストの目で香港を捉える。
1910(明治43)年、長谷川は『大阪朝日新聞』から特派員としてロンドンに派遣される。漱石のロンドン在住から10年ほど後である。往路はシベリア鉄道で、復路は地中海、スエズ運河、インド洋、シンガポールを経て帰国する。最終寄港地が香港だった。日本発が1910年3月で、ロンドン発が同年8月14日。極めて短期間のロンドン探訪だが、その視線は鋭い。帰国直後に『大阪朝日新聞』に「倫敦! 倫敦?」を連載し、1912年に東京の政教社から『倫敦! 倫敦?』として出版した。以下の引用は『倫敦! 倫敦?』(岩波文庫 1996年)に基づく。
「船が香港に入るに当って僕はツクヅク忌々しく感じた。西洋の果から東洋の果に来るに、その間常に英国の警察権を脱することが出来ないではないか」と、長谷川は苛立つ。それというのも、ロンドンを発ってから立ち寄ったジブラルタル、マルタ、アデン、コロンボ、シンガポールは全てイギリスの警察権の下に置かれているからだ。イギリスの警察権を拒否したら、「東半球を旅行することは出来なくなる」。イギリスの警察権が機能しているからこそ「東半球の平和が保たれている」。これが国際政治の現実だった。
かくて長谷川を乗せた船は「英国の警察権の下を走って来て、英国の警察権の下に香港の対岸九竜の桟橋に着く」。ここで長谷川はイギリスによる香港領有の背景を、「英国は千八百六十年の条約でこの九竜と香港とを取って更に九十八年に北緯二十一度九分の線から北を東経百十三度五十二分より百十四度三十分に至る間、真四角に分け取ったがその手段は余り真四角ではなかった。何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代わって維持せらる」と記す。
長谷川はイギリスの香港領有(香港島と九龍の割譲、新界の半永久的租借)はイギリスの軍事力によって強引に進められたものではあるが、国際政治の動向が力によって定まる以上、致し方がない。弱国である清国は強国のイギリスによる支配を受け入れざるを得なかった、と指摘する。
「何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代わって維持せらる」。そこで19世紀の世界は、当時の超大国であるイギリスの「強者の意思」で貫かれた。ところが、である。20世紀末に至って「強者の意思」を発揮したのは中国だった。正式の国際条約によって「割譲」された以上、香港島と九龍は未来永劫にイギリスのものであり、99年期限で租借された新界のみを期限切れの1997年(1898年に99年期限で租借した)に返還すればよかった。これが国際法に基づいたイギリス側の“理路整然たる主張”だった。もっとも1898年当時の力関係に基づくなら「99年」は永久に近い意味(効力)を持っていた。いわば割譲と同等の効力を有していたはず。
だが返還交渉に当たった最高実力者・鄧小平は割譲を決めた南京・北京の両条約はイギリス側の軍事力によって清国が結ばされたものであり、正当な国際条約ではないと言い放ち、サッチャー首相の申し出など鼻先で笑い飛ばした。「強者の意思」を発揮して「両者の間の平衡」を定めるのは中国だ――鄧小平は、そのことを内外に見せつけたのだ。《QED》