――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港63)

【知道中国 2181回】                      二一・一・初七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港63)

 

ここらで勝から離れ本題に戻るなら、やはり明治中期の日本人の香港に対する見方は岡が代表していると考えても間違いないだろう。つまり香港はイギリスが「商権を拡張し、軍威を輝かせる」ために「巨万の富を惜しげもなく注ぎ込」み、結果として「東西交流は日に日に隆盛を極め」、「それは単にイギリス一国を利するだけではな」かった。

そんな香港における日本人社会は、一方では『村岡伊平治自伝』が語るような姿を見せていたことも、また事実として押さえておきたい。

村岡が香港に最初に足を印してから15年後で、両組織の手打ちに“一役買った”と記す6年前の1900(明治33)年の4月半ば、小説家の大橋乙羽(1869~1901年)は香港を訪れ、「実に香港は人生の小劇場よ」との感慨を記した。

大橋は街を歩き横浜正金銀行、郵政会社、三井銀行などの日本企業を訪問し、「東洋館といふに小憩し」ている。東洋館は金がなくなった村岡が叩き出された旅館である。依然として営業を続けていたのだ。

横浜正金銀行、郵政会社、三井銀行などを香港における表の日本社会を見る一方、大橋は「街頭を徘徊し、一の写真屋に入」ったところで、偶然にも香港における日本社会の裏の部分を目にすることとなる。

「日本の醜業婦三人」で、「その風俗を瞥見するに、肥えたるもの、痩せたるもの、眉間に梅毒の発疹あるもの、艶無き髪を馬糞の如く束ね紺飛白の単衣に、白き木綿の片を巻き、臼大の臀をあらはして、紺足袋に麻裏草履揚々として、情夫と共に撮影せる写真に見惚るゝが如き、言語道断といふべきなり」。かくして「抑も日本の領事館は何が故に設けられあるや」と憤る。だが「われはたゞ醜業婦を禁止せよとは云はず、その風俗の斯くの如きを見るに至りては、国躰を辱しむるの酷だしきものに非らずや。局に当る者の、注意すべきなり」と。

さて、「国躰を辱しむるの酷だしきものに非らずや」との大橋の義憤に対し、勝ならどのように応えただろうか。

足を運んだマーケットの近くで大橋が目にしたのは、社会の吹き溜まりに身を寄せる人々の悲哀だった。

「家の檐下に畚一つを並べて、支那婦人の襤褸を裁縫するものあり。中には幼き児を携へ、破れたるい衣着ながら、足のいと小なるものあれば、あれは何者にやと問ふに、大家の零落すると共に、深窓の佳人の乞食するまでにはならで、街頭に襤褸さしては、船頭などより一銭二銭の賃銀貰うて、脆くも浮世を渡るなりといふ。明日が日のわからぬは人の身よのたゞずまひ、実に香港は人生の小劇場よと評し合うて本船に帰りぬ」。

「足のいと小なるもの」、つまり纏足であればこそ、以前は大きな屋敷で、大勢の使用人に囲まれ、なに不自由のない生活を送っていたことだろう。それが何の因果か、いまや「街頭に襤褸さしては、船頭などより一銭二銭の賃銀貰うて、脆くも浮世を渡るなりといふ」のだから。

それにしても、故郷を離れた香港で「情夫と共に撮影せる写真に見惚るゝが如き」「醜業婦」であれ、「街頭に襤褸さしては、船頭などより一銭二銭の賃銀貰うて、脆くも浮世を渡る」ようなかつての「深窓の佳人」であれ、とどのつまりは「明日が日のわからぬは人の身、よのたゞずまひ」である。であればこそ「実に香港は人生の小劇場」なのだ。

振り返ってみれば香港での生活の中で、どこの屋台のオヤジは元国民党の将軍だったなどの噂を聞きつけるや、怖いもの見たさで出かけたことも屡々。たしかに屋台のオヤジらしからぬ雰囲気を醸し出してはいた。昔も今も「実に香港は人生の小劇場」らしい。《QED》


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