――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港76)
廟街を右手にして渡船街を北に進むと西貢道と交差する。この辺りから先が跌打医(骨接医)、中医(中国医術医院)、中薬行(漢方薬局)などが集中している油麻地と呼ばれる下町で、午後3時頃からブラつくと、街角のあちこちで車座になった労働者の集団に出くわす。多くは車座の真ん中に置いたどんぶりにサイコロを投げ込むチンチロリンを楽しんでいたが、中にはカード博打に打ち興じる集団も見られた。
香港島の香港仔、筲箕湾、銅鑼湾と同じように、油麻地にも「蜑民」が操る船が台風などを避けて停泊する「避風塘」が設けられていた。
岸壁に立つと、はるか前方に波よけの突堤があり、船は突堤の左右両側に設けられた開口部から出入りする。岸壁から突堤までの海面には水路で仕切られた係留区画が設定されていて、大型船は外側の突堤寄り(右手から左手に「西1区」から「西5区」まで)に、小型船は内側の中央部(同じく右手から左手に「東1区」から「東6区」まで)に、渡し船などの小型船は岸壁沿いに、船の種類と大小によって別々の係留場所が定められていた。
そこは生まれてから死ぬまでを船の上で過ごす蜑民にとっての生活の場であった。油麻地でも避風塘は一種の水上都市であり、雑貨屋・電器屋・八百屋・レストランなど生活必需品を商う船が行き交い、結婚式場となる光郎艇、教会船、船の上の学校なども見られた。
当時の香港は、現在の国際金融都市へと変貌を遂げる前段階として、宗主国であるイギリスの殖民地から距離を置いた一個の独立した工業都市へと飛躍するための離陸期にあったように思う。だから香港社会の構造変化は蜑民にも及ぶことになり、漁業や港湾荷役など船を拠点にした生活から船を捨てて陸上生活へと、彼らを取り囲む社会・生活環境も大きな変貌を遂げようとしていた。
当時は船上から陸上へと生き方(まさに《文化》である)の移行期であり、係留されている船の数も少なくなりつつあったように思えた。
であればこそ、1911(明治44)年11月に訪れた与謝野鉄幹の目にした香港の港湾風景――「湾内の水は草色の氈を敷き詰めた如く、大小幾百の船は玩具の様に可愛い」く、「入江は幾百の支那ジャンクを浮かべて浅黄色に曇った」――は遠い昔に消え去っていた。
とはいうものの、中国人技術者の父とベルギー人の母の間に生まれた医師で小説家の韓素音(ハン・スーイン/1916~2012年)の原作を映画化した『慕情』(1955年)、それにアメリカ人建築家と悲しい過去を持つ香港の女性であるスージー・ウォンの恋愛模様を描いた映画『スージー・ウォンの世界』(1960年)――香港を舞台にした代表的なハリウッド作品がスクリーンいっぱいに描き出す西欧人から見たエキゾチックな、言い換えるならステレオタイプの香港の風情を、時に微かながらも感じられることもあった。
いまは埋め立てられ跡形もなく消えてしまった油麻地の避風港だが、当時はどす黒く澱んだ海面には得体のしれない浮遊物が浮かび、流れ出た油でギラギラと異様な光を放っていた。時に腐って腹が破裂寸前にまでパンパンに膨れた豚の死骸なんぞも浮かび、辺り一帯の空気は澱み、得も言われぬ生臭さを発していた。まさにゴミ捨て場の一歩手前である。
ところが夜になると辺りは激変する。どす黒い海面は近くのレストランや夜総会(ナイトクラブ)の華やかなネオンを照らして厚化粧し、海面はキラキラと輝き、なんとも艶めかしい風情を醸し出す。昼のあの異様な悪臭も気にならなくなるから不思議だ。
香港生活を始めて半年ほどが過ぎた頃、友人から油麻地での夜のクルージングに誘われた。とはいえ洒落たものではなく、真ん中に麻雀卓1台を置いた小型船に乗り込み、麻雀に興じながら避風塘を行ったり来たりするだけ。じつは麻雀牌を握ったことすらなかっただけに、4人の遊ぶ姿を眺めながら、ビールの独酌で暇を潰すこととなったわけだ。《QED》