――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港182)

【知道中国 2300回】                      二一・十一・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港182)

1976年2月、中国政府の文化部は当時の代表的な映画制作機関である北京、中央新聞記録、長春、上海の各電影制片廠に対し、極秘に京劇映画の制作を求めた。それには「毛沢東主席の要求にもとづき、老芸人による伝統演目を撮影すること」「その際、本来の伝統的な筋運びを残すこと」との付帯条件が付けられていた。つまり共産党政権が自らの政治的基準で手を加える以前の伝統京劇本来の姿(演技、筋運び)に戻せ、と言うことになる。

かくして各地から京劇の「老芸人」が招集される。だが彼らの体は、革命現代京劇に特徴的に見られる直線的で、力強さを前面に押し出すゴツゴツした演技に慣れて固くなっていた。「固くなった体を伝統京劇の円を描くような柔らかな動きに戻すことは困難だった」と、革命現代京劇「紅灯記」で主人公の娘の鉄梅を演じた劉長瑜が回想している。

じつは映画が中国にもたらされた当初、中国ではスタジオを舞台に見立てて伝統演劇を撮影する「戯曲片」と呼ばれる作品が制作された。黎明期の映画ビジネスを支えていた戯曲片は、芝居好きの民族性とも相俟って京劇のみならず各地の地方劇版も加わり、その後も制作が続いていた。

第六劇場と並行して映画館に足繁く通っていた当時、「早場」と呼ばれる午前の割安料金で放映される作品に戯曲片は珍しくなかった。スクリーンに映し出される役者の演技は、芝居小屋の客席から眺める舞台での動きそのもの。芝居小屋での観客の視線に擬してカメラを固定して撮影したのだろう。土地柄、香港では粤劇(広東劇)や潮劇(潮州劇)の戯曲片だった。であればこそ、極く稀に京劇の戯曲片に出くわした時などは、心私かに「好運気!」「謝天!謝地!」と幸運の極みに感謝した。些か大袈裟ではありますが。

閑話休題。

伝統京劇の戯曲片制作を巡る一連の動きの背後には、どうやら体調が思わしくなく、北京の邸宅で独り無聊を託っている毛沢東を慰めようという意図が感じられる。文革状況下で伝統京劇制作の指示を下すなどと言う危険を冒せるのは、やはり毛沢東本人か江青以外には考えられない。

かくして各地から呼び寄せられたベテラン役者は各電影制片廠の奥深くでカンヅメになりながら、戯曲片撮影が極秘裏に敢行された。当時、文革が終わったわけではない。依然として四人組が暴政を振るっていたわけだから、文革で否定した京劇の伝統演目が老芸人によって、しかも「本来の伝統的な筋運びを残」す形で制作されていることが社会に知れ渡ったら、江青ら文革派にとっては致命傷になっただろう。「偉大的領袖」の権威も吹っ飛んだかもしれない。当然のように文革派政権を揺るがす大スキャンダルに発展し、激しい権力闘争を誘発したはずだ。だから、一切を外部に漏らすことは許されない。

なにはともあれ、共産党政権のためのプロパガンダ映画制作の総本山である4か所の電影制片廠の奥の奥で、伝統京劇の戯曲片が、しかも超厳戒態勢の中で、毛沢東だけのために24本のカラー版として完成する。いま、それら演目名を挙げておくと、

「斬黄袍」「盗魂鈴」「三岔口」「轅門斬子」「紅娘」「辛安駅」「游龍戯鳳」「空城計」(以上、北京電影制片廠)、中央新聞記録電影制片廠が「借東風」「古城会」「連営寨」「売水」「盗仙草」「賀后罵殿」「文昭関」「独木関」「薛礼嘆月」「断橋」「五台山」「珠簾寨」「長板坡」「閙天宮」(以上、中央新聞記録電影制片廠)、「漢津口」(長春電影制片廠)、「四郎探母・巡営」(上海電影制片廠)――

死を半年ほど前にした毛沢東は、ニクソンや田中角栄を迎えた中南海の私邸書斎で、独り寂しく京劇映画を鑑賞したとされる。当時、視力は相当に衰えていたはずだが、24本の伝統演目のうちのどの作品を、波瀾万丈の人生の最後に目にしたというのだ。《QED》


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