――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港8)
正面が観音開きの頑丈そうな鉄製網戸で、その両側に石造りの門柱。門柱に林泉別墅と刻まれている。門柱のベルを押す。遠くの方で「リーン」と来訪者を告げる音が響くが、シーンとしたまま。しばらく待つと、遠くの方から「来了、来了(はい、はい)!」と声がして、50代半ばと思われる小太りの女性が階段を駆け上ってきた。来意を告げる。
彼女の後から曲がりくねった階段を下りると、小川に囲まれた洒落た山小屋風の大きな家があった。広い芝生の前庭を小川が囲み、周囲は高い木々に覆われている。見上げると目に入って来るのは青空と緑濃い木々のみ。清浄な空間が森閑として広がる。活気と喧騒、猥雑さと人慍が混然一体化したような香港のイメージからは想像もできない。別天地だ。
出迎えてくれた教授と夫人に改めて挨拶をして、4人の子供と初対面。だが物陰に隠れていて出てこない。じつは彼らが日常的に接するのは両親と兄弟。他人と言えば、今しがた門を開けてくれた住み込みの「小姐(お手伝いさん)」と定期的にやって来て庭の手入れをする「花匠(庭師)」、加えて中国語の女性教師。だから子供たちが日常的に接する大人は両親と3人ほどの他人。学校に通っていないから、同世代の他人に接したことがない。
9歳のシャイな長女を頭に、悪戯盛りの長男、おちゃめな次女、それにオシメのとれない次男――他人との間合いの取り方に戸惑う4人を前に試行錯誤である。“慣らし運転”が終わる頃、日本の小学校の全教科の教科書が届く。「二十四の瞳」ならぬ「八つの瞳」を相手の寺子屋式の授業が始まった。悪戦苦闘で悲喜交々の模様は後日ということで。
家庭教師の口が見つかって暫くすると、第一日文のD先生から、体調の優れないY先生の代役を仰せつかった。どうやらこれで、香港長期滞在のための最低限の財政基盤は確保されたことになる。
香港生活を初めて最初の衝撃的事件は、やはり「三島事件」だった。
当時はインターネットもSNSもない。テレビはあったが経済的に贅沢に過ぎる。やはり頼るのは新聞しかない。
事件翌朝の新聞は「日本軍国主義の復活」やら「帝国主義的反動文学者」といった批判に溢れていた。共産党系・中立系・国民党系のいずれであれ、事件に対するメディアの最大公約数的反応は「危険な日本軍国主義復活」「日本反動化の兆候」。研究所の先生方も先輩たちも、おしなべて「ノーベル文学賞有力候補ほどの文学者が、なぜ自衛隊に押し入ってハラキリをしたのか」「野蛮すぎる」「日本人はワケが分からない」だった。
事件を報じた新聞の切り抜きや事件を特集した数冊の週刊誌が、2週間ほどで実家から届いた。自衛隊員に対する三島の最後の呼び掛けを収めたソノシートがあり、早速、聞いてみる。ヘリコプターのローター音や自衛隊員のヤジに立ち向かう三島の心の叫びを聞きながら、なにが三島を行動に駆り立てのか。思想が秘めた衝撃力を考えさせられた。
半年ほどが過ぎた頃と記憶するが、住宅、町工場、小さな商店などが密集していた下町の紅?にあった映画館で「三島由紀夫を考える」といった趣旨の映画シンポジュームがあった。上映されたのは『人斬り』(1969年)で、三島が「幕末の四大人斬り」の1人に数えられる田中新兵衛役で登場すると、300人位の若者で埋まった会場に緊張が奔った。
幕末の京都で姉小路公和暗殺現場に残された刀が田中の愛刀だったことで、田中は襲撃を疑われる。犯行を問い詰められながらも弁明を拒絶し、取り調べ役人の一瞬のスキをついて自裁して果てた。その瞬間、会場全体がアッと驚き息を呑む。おそらく、一切の弁明を拒否し決然と自死を選んだスクリーンの中の田中に現実の三島が重なったのだろう。だが次の瞬間、会場の一部から笑いが起こる。なにが笑いを誘ったのかは不明だが、会場の反応から文化(ヒトの生き方)の違いのようなものを思わざるを得なかった。《QED》