――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港122)

【知道中国 2240回】                       二一・六・仲五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港122)

敗戦の混乱が続く1946年秋、浩と?生は北京から上海に送られ、国民党兵士が厳重に警備する施設に軟禁された。国民党政府は2人を飽くまでも中国人であり、敵である日本に故国を売り渡した漢奸として処刑しようと狙っていたとも考えられる。

「浩夫人と令嬢軟禁」の情報を得た日本側の上海連絡班(本部長は岡村寧次大将)は、田中さんに2人の救出を命じた。そこで田中さんは2人が軟禁されている施設を急襲する。

「十二月二十七日夜。国民党軍の警備を突破して、突然、中国服姿の田中徹雄と名乗る元大尉が母娘の部屋にやってきた。あっけに取られる浩に、精悍な顔つきのその男は、落ち着いた口調で軍人らしくてきぱきと事の次第を説明した。

明日、戦犯を残して最後の引き上げ船が出る。その船に乗らなければ、もう日本に帰る望みはなくなる。一刻も早く荷物をまとめて乗ってきた車で脱出しなければならない。

『私を信用して、ついてきてください。ここさえ脱出できれば、あとはどうにかなります』

その言葉に浩は即断した。この人は信用できる。危険を冒してでも、今ここを脱出しなければ、生きて還る術を失う。

浩に抱えられた?生が自動車に潜り込むやいなや、車は猛スピードで突っ走った。

『後ろからきっと撃たれます。なあに撃ってきたって当りませんから大丈夫ですよ』

田中はそう言いながら銃撃する兵士の前を突破した」。

――かくて1946年12月28日、浩と?生は窮地を脱し、夫の愛新覚羅溥傑の行方も分からないままに上海から最後の引き揚げ船で日本に戻ることが出来たとのである。

日中戦争中の8万人兵士帰順工作、それに1946年の上海における映画007のクライマックス・シーンを思わせる危機一髪の救出工作――田中さんをめぐる2つの英雄譚のどちらが鹿鳴春の宴席冒頭の会話に繋がっていたのか。聞きそびれてしまったことが悔やまれる。

それにしても、あの場の会話から想像するに、鹿鳴春に現れた北京からの要人は日中戦争時から国共内戦初期にかけ国民党軍、あるいは国民党政府のしかるべき地位に就いていたはずだ。国共内戦の帰趨が決した後に共産党政権入りして喬冠華の側近に納まったのか。それとも一貫して“本籍共産党・現住所国民党”として動いていたのか。

中国における政治の、なんとも奇妙で空恐ろしいまでの底なし沼のようなカラクリの一端を見せつけられたような思いがした。

2日ほど過ぎていたと記憶する。ホテルに尋ねると「一歩遅かった。目白のオッサンに先を越された。周恩来は福田ではなく田中を選んだ。オレの仕事は終わったから帰国する。北京に連れていってやれなくなった。ヌカ喜びさせて申し訳なかった」。続いて「これから日本の政治は、これまで以上に中国の政治に操られることになるに違いない。危うい限りだ。だから香港で中国のこと、中国人の生き方をシッカリと学んでくれ」。

そういえば田中さんとの何日かを過ごした後だったと記憶するが、恩師が日本からやってきたことがある。香港は初めてで、広東語も中国語もできない。恩師との1週間ほどは、まさにフル・アテンド状態だった。

恩師は田中主導による日中国交正常化に異を唱え、中華民国(台湾)との日華関係維持を掲げ運動を展開していた。であればこそ物見遊山の観光旅行であろうはずもない。

帰国から程なくして、恩師は共産党の対日工作に関する重要文書を発表している。恩師の最も近くにいたわけだから、その文書に関する経緯を知らないわけはないはずだが、どうにも思い出せない。それはともかく、その後、あの文書がまるで「M資金」のように間歇的にメディアで話題になる度に、別れ際の田中さんの言葉が思い出されるのだ。《QED》


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