――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港3)
じつはTさん主催の歓迎宴に向かう途中に、やがて香港生活における一方の柱となった香港第一日文専科学校(略称「第一日文」)に立ち寄った。それというのも、同校共同経営者の1人で教務責任者であったD先生に香港到着の挨拶をするためである。
同校はD先生にY先生、それにT先生の3人で創立し、当時の香港では最も古い日本語学校だった。DとYの両先生は中国生まれの日本人、T先生は日本の陸軍士官学校に学んだ中国の元軍人――先生方については、いずれ詳細を綴りたいと思うので、いまは先を急ぎたい。とはいえ後に知ることになるが、複雑微妙に絡み縺れ合う日中関係史、国民党と共産党の熾烈な戦いぶり、加えて共産党に連なる不可思議な人脈を物語っている先生方の人生から、じつに多くを学ばせてもらった。やはり歴史の証人とも言える先生方に日常的に接する機会を得たことは、我が留学の予期せぬ成果だと改めて感謝したい。
尖沙咀の中心を貫く弥敦道(ネーザン・ロード)を、外国人観光客向けのホテルや土産物店が並ぶ繁華街に向かって左側の歩道を歩く。石積みの側壁の手前の商店街を左折する。山林道と名づけられた脇道を50mほど先に進んだ左手に、第一日文はあった。
昼は16世紀末から17世紀初めにかけて明朝宮廷で活躍したイタリア人イエズス会士のマテオ・リッチ(中国名は利瑪竇)に因んだ校名の利瑪竇書院(女子校)で、夜になると第一日文に変身する。とはいえ利瑪竇書院と第一日文に教学でも経営のうえでも結びつきがあるわけではなく、単に大家と店子の関係に過ぎない。つまり第一日文は夜の空き校舎を借りて日本語教育を行っていたのだ。
利瑪竇書院は生徒のいない夜間でも家賃が稼げる。第一日文は自前の校舎を持たなくても身軽な経営が可能となる。面子を捨て、1つの校舎を昼と夜の双方にフル活用すれば固定費削減につながる。両者にとっては共に費用対効果は抜群だ。これぞ「双贏(ウィンウィン)関係」だろう。
さて、たった2人ながら大いに盛り上がった歓迎宴を終え、アルコールを仲立ちにして一瞬にして“旧知の間柄”になった2人の若者は千鳥足でご帰還である。
近道ということで小さなバーが軒を寄せる裏通りを歩いた。店の入口にはケバケバしい化粧のお姉さん方が屯し、行き来する米兵にヤリ手婆と思しき風体が纏わりつく。田村泰次郎の『肉体の門』を思わせるような光景が目に入ったが、当時、ヴェトナムでは戦争続行中であり、香港の沖には休暇兵を満載したアメリカの艦船が定期的にやって来ていた。
さて下宿先ではご主人(ということは大家さん)のSさんが、新婚間もない奥さんと2人で出迎えてくれた。当時、Sさんは30代半ばだったろうか。生まれは広州で、大学では数学専攻だった。高級中学時代に共産党の政治に疑問を持ったとかで、1957年に展開された反右派闘争に引っ掛かり、共産党政権下では生きられないと腹を固め、1958年に毛沢東が猛進させた大躍進によって引き起こされた飢餓地獄から逃れ、命からがら香港に辿り着いたという。やがてSさんを頼って香港に脱出した元紅衛兵の若者と知り合うことになるのだが、それまた――中国の伝統的な通俗小説形式に倣うなら「要知端祥 且停下回分解(続きは次回のお楽しみ)」ということで。
ここで下宿の“レイアウト”を紹介すると、頑丈な鉄製の、次に木製のドアを開けると、8畳ほどの広さの居間があり、右手が3畳ほどの台所、その隣が風呂とトイレ。居間の向こうにドアが2つ並んでいる。左側がSさん夫婦の寝室で、右側が我らの部屋だ。4畳ほどの広さに机が1つと鉄製の2段ベット。もちろん机もベットの下の段も先住者であるTさんが使っているから、残された上の段が“我が根城”である。たった、これだけ。
かくて留学1日目の眠りに就く。ともかくもTさんの鼾が凄くて、タマラナイ。《QED》