――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港93)
新界の新田村の住人である文さん一族が目を付けた先が、ロンドンだった。
聞いてみると、文さん一族の大部分はロンドンにあるチャイナタウンに親戚を持っていた。現にロンドンで稼いだ財産で悠々自適に暮らす者もいれば、一時帰郷者もいた。肉親や友人を頼ってロンドンに出かけ一旗上げようと考えている若者も少なくないとか。言い換えるなら、ロンドンのチャイナタウンは“第2の新田村”ということになる。後年、ロンドンで知り合ったチャイナタウンの住人は「自分は新田村の文氏一族出身だ」と。
ロンドンのチャイナタウンに遊んだ時、ふとパン屋さんを覗いてみた。ガラスケースの上に積まれた焼きたての菠羅包(パイナップル・パン)を見つけた時は、思わず歓声を上げた。それというのも、菠羅包こが香港を象徴する食べ物と確信しているからだ。雲呑麺でも飲茶でもない。断固として菠羅包。たかが菠羅包、されど菠羅包、だから菠羅包。
さて唐突だが、菠羅包にまつわるホロ苦い話を。
香港生活が4年を過ぎた頃、寺子屋式教育閉鎖となった。それというのも、父親の数学教授が新しい研究の場を得て香港を離れることになったからだ。となると収入激減は必至。ならば徹底して生活費を切り詰めるしかないだろう。かくて勢い皺寄せは食生活に。
当時は朝食抜きで、昼は新亜書院近くのパン屋で買った菠羅包を1個(たしか、香港島・九龍間フェリーの安い方の料金と同じ20セントだったはず)を手に九龍城に向かい、近く屋台でコップ1杯の豆醤(とうにゅう)を買って・・・これが昼食。夜は缶詰のオイルサーディンを食パンで挟んで・・・いやはや悲惨と言うのか。というわけで否応なくダイエット。当時は175�で45�ギリギリだったような。菠羅包が命を繋いだ・・・大袈裟か。
毎回、菠羅包しか買わないから、そのうちにパン屋のオヤジがこちらの顔を見ると、黙って菠羅包を紙袋に入れて渡してくれるようになった。ある日、懐具合が少し良かったから少し値の張るパンを注文したのだが、オヤジは「お前はコレダ」と菠羅包入りの紙袋を目の前に突き出す。オヤジは頑固なのだ。「今日は違う」と抗弁するも無意味。こちらの注文をハナっから聞き入れる風でもない。だから菠羅包を受け取って、引き下がるしかない。
閑話休題。
ロンドンのチャイナタウンで食べた菠羅包は、香港の街場で売っている小ぶりの、小じゃれた菠羅包と違い、デカい上に粉っぽく、元朗の菠羅包の味を思い出させてくれた。どうやら菠羅包の製法も元朗郊外の新田村の文さん一族と共に海を越えたらしい。
さて文さん一族がロンドンのチャイナタウンに住み着くまでの経緯だが、香港でマトモな仕事が見つからなかったことから海外航路の水夫になった者、あるいは英国殖民地住民に与えられた法的立場を利用して職を求めてロンドンに移住した者、船から飛び降り(船抜けし)てロンドンに住み着いた元水夫などがいた。
彼らを新田から押し出したのは香港に居てはマトモな仕事は見つからないと言う切迫した事情であり、ロンドンに引き寄せたのは就労の機会、それが中華料理店だったわけだ。じつは第2次大戦が終わって50年代に入ると英国の経済が上向き始めると、英国人も些かの贅沢を味わいたくなる。これが文さん一族にとって千載一遇の商機となる。
しょせん相手は海賊の子孫である。微妙な味が判る訳がない。香港の農民が作ったチャーハンだって華麗な中華料理だ。新界の田舎料理だって、単調な味のフライド・フィッシュより数段も豪華で美味いに違いない。こうして新田村出身者が作った料理が評判を呼ぶ。
客が押し寄せるようになれば、人手が足りなくなる。そこで故郷でクスぶっていた若者に声を掛かる。それというのも信用できるのは、同じ中国人でも出身地や姓が違う者ではなく、やはり新田の文さん一族。そこで《自己人(なかま)》を頼ることになる。《QED》