――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港79)
ここで「死体のホテル」であり、「棺の宅配ビジネス」のトランジット・センターでもあった東華義荘について、もう少し突っ込んで考えてみたい。それというのも、東華義荘という“摩訶不思議な空間”に日本人にとって理解不能に近い中国文化――中国人の《生き方》《生きる形》《生きる姿》――の一端を垣間見ることが出来るだろうからだ。
幕末の僧・釈月性の志を書き留めた「男児立志出郷関、学若無成不復還、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」からは、世の中は何処であっても青山(墳墓の地)であるという決意が浮かび上がってくるが、どうやら中国人にとっては「人間到処有青山」ではないらしい。彼らは飽くまでに故郷にこだわる。やはり故郷の土に戻りたいのだろう。以下は主に『東華三院档案資料彙編系列之三 東華義荘与寰球慈善網絡 档案文献資料的印証与啓示』(葉漢明編著 三聯書店(香港) 2009年)を参照した。
清末から民国初期にかけて歴史家、政治運動家、政論家、政治家として華々しい動きを見せる一方、近代中国を代表するジャーナリストでもあった梁啓超が著した『新大陸遊記』は、当時の中国人にとっての憧れの国であったアメリカに対する文明批評を展開している。その中でアメリカ西海岸に生きる華僑が遺骨を故郷に運んで埋葬することを、「愚」と決め付けている。
「(華僑団体が)甚だ奇妙な点は、その目的が極めて単純であり、異郷に客死した者の骨を運搬することだけということだ。葬祭の礼というものは、元来がわが国では宗教的習慣から殊に重んじられている。異土に命を落としながらも首丘(ふるさと)を仰望することは、また愛国の情といえよう。だが、愚が過ぎる。骨を故郷に送り帰すために、時には数百金を必要とする。だから、この種の団体は日頃から多くの蓄えを持つ。少ない場合は数万金。多い場合は番禺の昌後堂のように30数万金を抱えている。その資金の多くは華僑が帰郷する際に会館が徴収する出口料(手続き料金)でまかなわれることになる。それだけの資金があれば学校はいうにおよばず、大学だって開校できるではないか」。
梁啓超にいくら「愚」と嘲笑され罵倒されようが、「首丘」に葬られ、故郷の土になることを望むのだから致し方がない。
このような事情を背景に生まれたのが東華義荘だった。じつは東華義荘の前身は1875年に香港島西環の牛房付近に建設された牛房義荘で、本来は香港で死んだ者が「入土為安」するための棺の一時保管場所だった。だが、海外で死んだ者の「入土為安」を果たすため棺や遺骨が運ばれ、ここで国内航路に積み替える必要から一時保管をする必要が生じてきた。そこで牛房義荘が兼用されるようになったわけだ。
1842年の南京条約によって英国の植民地になった結果、貿易、海運、情報、文化などの面で中国と世界を結ぶこととなった香港は、「四海為家」を果たし「入土為安」を実現させる中継点でもあった、ということになる。香港を経て海外へ、香港を経て故郷に、である。
ところで牛房義荘設立以前の1855年5月、早くもアメリカ西海岸から香港に棺が運ばれている。アメリカ貨物船のサニー・サウス号が200袋のジャガイモと共に「九十四箱死去的中国人」を載せていた。正確なところは不明だが、おそらく棺が94個。その中には1848年にアメリカ西海岸で起こったゴールド・ラッシュに引き寄せられるようにしてアメリカに渡った労働者の亡骸が収められていただろう。
そのような労働者もまた、各地で相互扶助団体を組織する。そのうちの1つで1853年にサンフランシスコで組織された美国陽和会館の規定には、「労働が出来なくなった傷病者と肉親のいない困窮者は、会館が帰国資金を援助する」「死亡した困窮者には、会館が棺を用意する」と記されている。その棺は船積みされ、やがて東華義荘にたどり着く。《QED》