――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港82)
一方、寧陽会館からの書簡では、30個の骨箱に収めて託送した105柱の遺骨を「転交香港台山商会、俾得運入寧城義荘」、つまり香港に住む台山県出身商人で組織した台山商会に移した上で、寧陽会館が故郷に造成した「先友」のための共同墓地の寧城義荘に埋葬するよう依頼している。この書簡の日付は特定できそうにないが、1918年から1925年の間と見られる。
以上の2つの書簡から、肇慶総会館にせよ寧陽会館にせよ、当時すでに香港で活動する支部なりの関連組織を持ち、サンフランシスコ=香港=故郷を結んだ運棺ネットワークが機能していたことが読み取れる。このネットワークが棺や骨箱だけではなく、じつはヒト・モノ・カネを運んでいた。その中にアブナイモノが含まれていたとしても不思議ではない。
では、託送された棺なり骨箱を引き取る遺族が現れない場合はどう処理するのか。そこまで心配することもないとは思うが、ここまで調べた以上は、その先を知りたくなるのが人情、いや“業”というものだろう。
1927年2月28日付けの東華三院から出された金山寧陽餘慶堂宛の書簡は、1年前にアメリカの定期船で託送されてきた「先友骸骨九十七箱」は5月22日に東華義荘に安着し保管しているが、引き取りに現われない遺族がまだ多数いる。今回、遺骨を収めている布袋が劣化し破れてしまったことから遺骨が散乱してしまい、どれが誰の遺骨か判明しない。遺族が引き取ることを望んでも渡せない――と綴った後、次のように小言を添えた。
「竊かに思うに此の先友は身を異邦に喪う。貴堂列翁の骸骨を?拾するを経て付返す。理さに宜しく運び故里に帰し、俾みて首邱を正すべし。今、竟に此れらの骨殖は零乱するに因り、認め領ける能わず。諸々の情理を揆れば、心に於いて殊に不安有り。別埠の付来する骨殖を査らかにするに、具毎に白の鉄箱を用いて貯好め、外面に加えるに木箱を用い、先友の姓名、籍貫を木箱の外面に書写し(以下、略)」。
つまり、願い通りに故郷の土に還してやりたいと苦労して収集した遺骨なのに、ぞんざいに扱うから処理に難儀をするんですよ。袋は腐り破れ骨が交じり合ってしまい、どれが誰のものやら判らない。人情において忍びないではありませんか。「別埠」――サンフランシスコ以外の都市を指すのだろう――にある華僑組織から送られるてくる遺骨は白の鉄箱に収められ、さらにそれを木箱で覆い、箱の表面には死者の名前と還るべき故郷の地名まで書かれていますよ。だから今後は布袋なんぞに放り込まないで、「別埠」のように手厚く丁寧に処理してくださいよ。イイカゲンにしてくださいよ。今後は梱包をシッカリ頼みます、ということだろう。
北米であれ中南米であれ、各地の華僑組織と東華三院との間でやりとりされた書簡をみる限り、「入土為安」までの一連の作業は、以上に示したサンフランシスコからの場合と同じような処理がなされている。
最後に面白い例を1つ挙げておく。それは横浜中華会館理事長孔雲生からの書簡で、日付は「中華民国拾六年十月二十七日」というから1927年10月27日になる。
その文面によれば、�横浜中華会館前董事・譚玉階の棺を今年の冬季に香港宛に託送するので東華義荘で保管を願いたい。�子息の譚理平が神戸から香港に向かうので蝦苟艇を雇い、棺を故郷の高明県に運搬し葬ってもらいたい。�費用につき返信願いたい――と求めたが、東華医院からの返事がない。譚理平からは「東華医院からの返事はどうなっているんだ」と何回も言って来るが、曖昧な返事しかできない。そうこうしているうちに棺を船積みする日が近づく。はたして当方の希望は叶うのか。返信次第では今回の措置は中止せざるをえないかもしれない。そこで「専候玉回」と返信を求めるのであった。《QED》