――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港65)

【知道中国 2183回】                      二一・一・仲一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港65)

 

いわば香港をめぐる中国とイギリスの立場は、1世紀半ほどの後には完全に逆転していたのである。ここで忘れてならないのは、この間、香港の住民に自らの運命を選ぶ機会が与えられることがなかったということだ。

19世紀前半にイギリスが掲げた「東半球全部の警察権を手に入れようという遠大な目的」は200年ほどの時を経るなかで大きく変化し、21世紀初頭になって習近平政権が手中に収めるべく画策・妄動しはじめたのである。2019年6月来の香港における動きを「東半球全部の警察権を手に入れようという遠大な目的」の一環と捉えるなら、その振る舞いの強引さの淵源が解ろうというものだ。

相手は、「革命とは、おしとやかなものではない」との毛沢東思想で育った習近平である。

やはり情緒一辺倒の「人権」「民主主義」の金切り声なんぞは、痛くも痒くもないはずだ。鉄面皮な習近平政権が狙う「遠大な目的」を水泡に帰さしめるための実効策は何なのか。いまこそ改めて深く考えねばならない歴史的大命題だろう。

長谷川は香港の歴史を次のように綴った。

「香港の歴史は盗賊と疫病の歴史で、政府(殖民地政府=総督府)はいつもこの両者と戦うのを主たる任務としていた」。殖民地化以前の香港島は海賊の巣窟でもあり、殖民地行政が始まって「大分開けてからも陸では押込強盗隊を為して甚だしきは総督府の役所まで乱入するような始末で、海では船客に化けた支那人が船の海中に出るのを待って船長以下を鏖殺しにして全船を劫奪するような事が毎日のように行われていた」。だから「今でも香港政府の収入の大部分は警察費に使われる」とのこと。治安維持が大問題だった。

村岡や長谷川が上陸した頃の香港は基本的には「盗賊と疫病」の島から脱していたと思いたいが、じつはそうでもなかったらしい。

警察当局は原則として中国人の夜間11時以降の外出を禁止し、1857年には夜間通行証所持者以外の外出を正式に禁止している。この制度は1897年というから、新界の99年租借が定まった1年前になって廃止されている。とはいえ海の治安まで手が回らなかったようで、1920年代の記録を見ると、7、8歳と思える子供の海賊――身の丈より長い銃を持ち、弾丸が装填された腹帯を巻いた“一丁前”の姿――を認めることが出来る。1927年にイギリス海軍が海賊を逮捕した際の写真には、互いが手首を手錠で数珠繋ぎにされた10人ほどの海賊が写されている。

仕事を求めて大陸からやってきたものの身寄りも仕事もないままに困窮し、行き倒れする者も少なくなかった。こうして街頭には死体が転がることになる。そこで住民が警察当局に死体処理を依頼するわけだ。

そこで、1904年に出版された中国人向けの英語学習独学教材に見える「報門前路上有屍骸懇請遷去函式」を示しておくのも一興だろう。ある街の代表が数軒の商店と連名で所轄警察に宛てた依頼状――「路上に横たわる病死したと思われる男性死体を早急に撤去してもらいたい」――の英文書式で、日付、場所、死体の種類(男性・女性、大人・子供)を書き換えれば正式の依頼状になるよう工夫されている。トンだ英語教材もあったものだが、それほどまでに行き倒れ死体処理は日常化した切実な問題だったということだろう。

こう見てくると、村岡が「町にはすでに日本人の女郎二百人ばかりがお」ったと記す頃の香港の姿が朧気ながら浮かび上がってくるようだ。夜盗が蔓延り、海賊が跋扈し、街路の行倒れ死体も珍しくなかった。それでも日本人は出掛けたわけだから、それ相応の覚悟を持っていたはずだ。同時に彼らは、香港に“好機”を求めていたに違いない。

それにしても香港は、じつに物騒で危なっかし気な街だったようだ。《QED》


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