――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港54)
不正はイギリス人署長の下で実務に習熟する副署長クラスの中国人を頂点にして、その差配の下で組織的に行われる。警察組織と黒社会との間に「双贏(持ちつ持たれつ)関係」が成り立っているから、相当な金銭・利得が“統括責任者”の許に集まる。だが、彼が独占するわけにはいかない。それというのも警察部内の不正集金システムを維持するためである。取り締まる側と取り締まられる側が同じであり、上は署長から下は末端警官にまで過不足なく“成果”を行き渡らせることで、組織の安全性が担保され、維持されるわけだ。極論するなら、警察とはバッチを付けた公認の犯罪者組織というカラクリである。
警察部内の不正を取り締まろうと過去に何回も改革が試みられたが、警察部内で処理されていたことから当然のように実効は上がらなかった。そこにマクレホース総督が切り込んだのである。じつは1972年、イギリスで内務大臣を巻き込んだ大規模な不正事件が発覚したことも、香港における不正糾弾の勢いに弾みをつけたとも考えられるのだ。
1973年、67年の香港暴動鎮圧に功績のあった警察トップのピーター・F・ゴッドバー(漢字表記で「葛柏」)の不正が摘発された。だが、彼は職権を行使し430万香港ドルを手にイギリスに逃げ帰ってしまった。当然のように学生が不正糾弾の声を上げ、街頭運動を展開する。このような社会の動きを背景に、マクレホース総督の肝入りで1974年に汚職捜査機関の廉政公署(ICAI=Independent Commission Against Corruption)が成立し、ゴッドバーは1975年に香港に移送されている。
そういえば3日に開けず犬肉屋台のお世話になっていた当時、こんなことは日常茶飯事だった。パトカーがゆっくりとやってきて窓を開けるが、屋台の取り締まりなどではなかった。屋台のオヤジがパトカーに近づき、開けられたばかりの助手席の窓に犬肉がてんこ盛りの大き目などんぶりと酒のビンを突っ込むと、それを2本の腕が受け取る。もちろん人数分の箸とコップを添えて。すると窓が締まり、パトカーはスピードを上げ立ち去る。もちろんナマの犬肉ではなく、口に入れると溶け出すほどに煮込まれた香肉だ。
それから30分ほどが過ぎると、再び件のパトカーが。スピードが緩むや、オヤジが近づく。今度は反対に窓が開き、カラのドンブリと空き瓶、それに箸とコップが差し出される。それをオヤジが受け取ると、パトカーは窓を閉め、夜の街のパトロールに向かうのである。
まるで流れ作業を見せられてでもいるかのように、一連の動作が遅滞なく繰り返される。たかが犬肉料理に酒であるから大騒ぎするまでないが、この見慣れた光景も、いつしか見られらくなっていた。いつの頃からかは判然とはしないが、たしか警察官を取り締まる警察官が、しかも複数1組でパトロールをするようになったことを記憶している。これなども“マクレホース効果”の一端だったのか。
とはいえ廉政公署が万能だったというわけではない。後日談だが、“鬼平”こと長谷川平蔵よろしく追及が厳しすぎたようで、警察官が反発を見せた。1977年には警官のデモ隊が廉政公署に押し掛けたこともあった。そこで過去の軽微な不正は不問とすることで事態の収拾が図られている。
その後の廉政公署の統計に依れば数字の上では警察関連の犯罪は減少し、警察部内の犯罪シンジケートによる組織的不正は目に見えて減少しているものの、当然のように廉政公署は万能ではなく、個別の不正が後を絶ったわけではない。
このような歴史を歩んだ警察の半世紀後の姿が、昨年6月来の過激な街頭デモに対処する重武装の警察部隊ということになるのだろう。
どうやら私の香港生活は、マクレホース総督が試みた「殖民地の本土化」の前半に当たったことになる。こう考えると、じつに幸運な時代の香港を満喫したらしい。《QED》