――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港118)
香港での収入源の1つだった第一日文の思い出を。
日本語教育専門の夜学校だった第一日文は、金曜日から土曜日までの夕方の6時から8時過ぎまで。前後2クラスに分けて教えていた。学生は1日おきで週3日通っていたから、1か月では4週間×3コマで12コマ。これを1年続けることになる。
「あいうえお」の発音から始まる最初の1年間が初級班。初級班を修了すると2年目で中級班。中級班の1年が終わり所定の成績を収めると高級班へ。もちろん初級班は学生数が多く、程度が上がるほどに受講生の数は少なくなる。1日4教室で前後クラスだから、毎日8クラスが開講されていた。これを3人の専任教師と5、6人の日本人アルバイトで回すことになる。学生数が最も多かったのは1974年前後で、たしか300人に数人足りない程度ではなかったか。第一日文は当時の香港で最大規模の日本語学校だった。
3年間通い高級班の課程を修了すると卒業となるが、3年間も続けると第一日文通いが習慣になってしまったり、あるいは日本語をさらに学びたいからと高級班に居座り続ける学生もいた。そういった学生のなかで最も熱心で成績バツグンだった学生が、現在、香港の日本語教育界の重鎮として活躍している李澤森第一日文校長だ。
学生は年齢で言うと中学生から老人まで。職業も種々雑多だった。日本人の海外旅行がブームになり、多くの日本人観光客が香港に押し寄せ始めた頃でもあり、やはり日本人観光客相手の土産物屋の店員が多かったようだ。だが、中には将来的には日本の大学に留学し日本研究を目指すからと通って来ていた大学生や、上海時代に覚えた日本語を忘れたくないからと若者と席を並べる上海人の老人もいた。父親に連れられ通った日本料理屋のざるソバの味が忘れられないと語る時の、彼の楽し気な顔を今でも思い出す。
所謂「日本学ブーム」が起こり、香港の大学でも日本研究コースが本格始動し、日本のサブカルチャーが東南アジア一帯に浸透し、永田町やら霞が関が「クール・ジャパナ」などと浮かれまくる遥か以前の話だ。あの当時、日本政府も国策として海外での日本理解を進め、日本ファン拡大を目指して日本語教育を本格展開していたらどうだっただろうか。
日本経済が日の出の勢いの成長を見せ、海外からの羨望の眼差しが日本に注がれていた頃が日本語教育拡大のための――ということは海外に日本と日本人を理解させるうえでの絶好機だったと思う。だが、なぜか政府として無自覚に時を過ごしてしまい、その絶好機を失ってしまったと痛感する。上っ調子な国際化と英語教育偏重の泥沼に自分から転がり込む前に為すべきことを為さなかったツケが、いま回ってきているように痛感する。
閑話休題。
型にはまったような授業は面白くない。そこで自分なりに工夫をしてみた。
高級班には三島事件後に父親から送ってもらった三島由紀夫『蘭陵王』の一節を何回か読み聞かせた後で書き取りを。中級班には中学1年生レベルの簡単な応用問題を解かせた。
たとえば「子供に鉛筆を分けるのに、1人に4本づつ分けると8本余り、1人に5本づつ分けると2本不足する。子供は何人いて、鉛筆は何本ありますか」という問題を何回か読んで聞かせ、次に書き取らせる。誰か学生を指名して黒板に書かせる。聞き取りの答合わせが済むと、次に問題を解かせる。2人ほど学生を指名し、黒板に計算式を書かせ、答えに至る経緯を説明させる。もちろん日本語で。
問題の日本語を正しく理解できないと正解に至らない。だから一石二鳥。そこが狙い目だった。学生からは好評だったと記憶している・・・が。
さて初級班だが「誰々は誰々が~~です」の構文を教えた折のこと、永田町でポスト佐藤をめぐって激しく展開されていた「角福戦争」を利用させてもらうことにした。《QED》