――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港2)
中学生の頃に中国に興味を持ち、いずれ将来は中国と関わった人生を送ることになるだろう。こんな風に漠然と考えていただけに、大学入学以前から中国世界――中国、台湾、香港、それともシンガポール――への留学という人生コースは、すでに心の片隅で計画が進んでいた。そこで大学4年間は留学資金調達に明け暮れたというわけだ。
当時は所謂「70年闘争」に向けての助走期であり、大学内外には政治の暴風が吹き荒れ、学内はアジ演説と内ゲバで騒然とし、講義など落ち着いて聞いてはいられない。
教室で正規の授業を受けたのは1年と2年次前期の合わせて1年半。とはいえ、この間も過激派学生の授業妨害が常態化していたから、マトモな授業は極めて限られた回数しか経験していない。そのうえ世界中の若者が既成の秩序や政治体制に異を唱え街頭に飛び出した「1968年現象」の煽りを受け、大学が過激派学生による街頭行動のための出撃拠点と化すに及び、大学当局はキャンパスを封鎖してしまった。学問の自由もヘッタクレもない。
2年次後期から卒業までの2年半は、自慢じゃないが、授業は完全にナシ。だから、学部生活4年間のうちの3年前後は通常の大学生活とは無縁の日々だった。定期試験も変則的で、卒業試験は指定期日までに書き上げたレポートを郵便ポストに投函して完了だった。それでも卒業できたのだから大学当局も、文部省も、それに世間も鷹揚だった。現在、新型コロナ禍に悩まされ、リモート授業とかでやる気が失せている若者に、当時の我われが“享受”したイイカゲンさの万分の一でも味合わせてやりたいものではある。
かくして有り余るほどの自由時間を留学資金造りに全面転用し、実入りの良かった肉体労働に勤しんで、100万円ほどの留学資金を調達した。
いざ留学先を決める段になると、第一希望の中国は文化大革命の真っ盛りであり、こちらから願い下げ。台湾には国費留学のルートもあったが?介石独裁下であり、毛沢東万歳の中国大陸と五十歩百歩の不自由さは1968年夏の短期語学留学で体験済みだったから、パス。シンガポールは中国大陸から離れ過ぎているから、意欲が湧かない。“四捨五入”して香港へ。だが今から振り返れば、留学先選びは大正解だったと思う。
あちらこちら奔走し、親友の手助けも受け、香港の新亜研究所から入学許可証が届いたのが半世紀前の今頃、ちょうど1970年の夏だった。
当時は外貨持ち出し制限があったので、100万円のうちの80万円ほどをウチから一番近かった埼玉銀行浦和本店で米ドルに両替し、パスポートの最終ページに持ち出し米ドル証明印を捺してもらった。東京駅の丸の内側にあった日本航空で購入した香港までの片道航空券は、たしか8万円ほど。鉄道の初乗り料金は当時の国鉄が30円で、現在のJRは140円。つまり単純計算で4.6倍。ということは、これまた単純計算だが航空券は37万円ほどで、80万円は現在の370万円ほどの大金となる。我ながら、よく働いたものだ。
かくて羽田空港へ。もちろん当時は成田空港はなかった。両替した80万円分の米ドルとパスポートの最終ページを税関で提示し係官の許可が下り、やっと機内へ。昼頃に羽田を発って、香港着は薄暮の頃だったような。今とは違って香港では入境も税関も検査係官は憎たらしいほどに厳格ではあったが、新亜研究所の入学許可証は威力抜群だった。
無事に空港ロビーに出ると、これから下宿を共にするTさんがニコニコ顔で出迎えてくれた。双方、事前に写真を送っていたから相手を探すのに問題はなし。そのままタクシーを奮発し向かった先は、佐敦道碼頭(ジョーダン・フェリー)の前に聳える高層住宅群の一角の文蔚楼。その24階の部屋の一角に荷物を置いただけでTさん主催歓迎宴へ。とは言え2人だけ。尖沙咀の路地奥の小さな上海料理屋。共にビールのピッチは上がるばかり。
この瞬間、いわばTさんと二人三脚の“酒浸り留学生活”が始まった次第である。《QED》