――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港10)
ニクソン大統領訪中の間、香港の人々は中国から送られてくるテレビ映像に釘付けだった。自分たちの運命を左右することになるだろう米中両国トップの会談だから、やはり当然と言うべきだ。だが、もう一方で新聞や噂で知ることしかできなかった文化大革命で揺れる中国社会の姿を、ニクソン大統領の行動を追ったテレビ映像の背景から読み取ろうとしたからではないか。街を歩いても、歩道にヒトが群がっているのは例外なく電器屋さんの前。誰もがテレビに見入っていた。
ニクソン大統領訪中の初日、大統領専用機到着から歓迎式典の模様――専用機に近づく周恩来、にこやかにタラップを降りるニクソン、互いに近づき握手する両者、さらに儀仗兵の閲兵など。昨日までは考えられなかった米中和解の衝撃的シーンを、テレビは次々に映像で伝えてくれる。かくて香港の街は静かな昂奮とでも言える1日を送った。
翌朝、研究室に入ろうとすると、向こうから歩いて来た事務局長の趙さんが「ニクソン歓迎式典、見たかい」と声を掛けてきた。見たと返事をすると、「儀仗兵たち、体はガッシリして大きいし、顔立ちは整っていたし、リッパだったな!」と感極まった雰囲気。てっきりニクソンの振る舞いを話題にするのかと思っていただけに拍子抜け。徹底した共産党嫌いで、過激な毛沢東批判を連発していただけに、不思議としか思えなかった。こちらの戸惑いを感じたのか、趙さんは「な、中国人はスゴイだろ」と念を押す。
趙さんは共産党政権を嫌って香港に逃げてきた。ならば“仇敵”であるはずの共産党政権防衛の任にあたる人民解放軍兵士を褒めそやし、なかば自慢するとは話が違い過ぎるだろう、と首を傾げた。だが考えてみれば趙さんが嫌悪するのは共産党政権でこそあれ、共産党政権下で生きる中国人ではないように思う。兵士も同じ中国人であればこそ、長く音信の絶えていた肉親が、ある日、見違えるほどに立派な姿になって目の前に現れたような感慨を、あるいは趙さんは抱いた。だからこそ日本からの留学生に自慢したかったのだろう。こう考えると、あの日の趙さんの自慢げな顔付きも納得できそうだ。
趙さんを含め1972年2月に安堵した大多数の人々も、やがて丁々発止・紆余曲折の返還交渉を経て、1985年に返還が正式に決定するとは想像だに出来なかったに違いない。毛沢東思想を熱烈に信奉していた友人ですら「不当なイギリス殖民地を脱し、香港は中国に戻らなければならない。だが、オレの目の黒いうちはムリだろう」と言った趣旨を語っていたことを思えば、やはりニクソン訪中が大にしてた世界情勢に、小にしては香港の人々に与えた影響は甚大であろう。
人民解放軍儀仗兵に対する趙さんの受け取り方は、あるいは当時の香港住民の世代間の違いに求めることが出来るかもしれない。
趙さんの世代より年齢が上の人々にとって、中国は自分たちが生まれ育った故郷である。その故郷を共産党政権が押さえ、独裁国家としてしまった。だから故郷と共産党政権とを切り離して考えることができる。だが、生まれも育ちも香港である若い世代にとって故郷は香港でしかなく、中華人民共和国を“祖国”と見做すことは出来そうにない。
誤解を恐れずに表現するなら、台湾における本省人と外省人に間の省籍対立に似た感情の違いが、知らず知らずのうちに香港でも起きていた。いわば対立とまで明確化できなくとも、世代間の感情の違いとでも表現できるのではなかろうか。こう考えると、昨年6月以来の香港の混乱の背景も理解できるように思う。
大多数の若者は返還以前の殖民地時代を知らない。だから反中のシンボルとしてイギリスやアメリカの国旗を掲げ民主化を求めることができる。だが返還以前を知る世代は若者世代のようには振る舞えない。なぜなら殖民地が彼らの人生の大前提だったからだ。《QED》