――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港110)
香港をギューッと小型にすれば九龍城に化け、逆に九龍城をガーッと膨らませれば香港に変身する――こう考えると、なにやら納得できてしまうから不思議だ。
香港には“小型香港”とも言える場所が3か所。九龍城(カオルンセン)と尖沙咀の重慶大廈(チョンキンマンション)、それに香港島北角の五洲大廈(ウンチョウタイハ)だ。この3か所をほぼ均等に、しかも存分に堪能した経験は、今となっては超貴重と自負する。「なんでも鑑定団」に無形文化財部門があったなら、我が体験は鑑定人背後のボードに「一、十、百、千、万、十万、百万、千万・・・」と8桁以上の数字が記されるはずとソロバンを弾いてみるのだが・・・香港生活における“至宝”と言っておきたい。
重慶大廈については2138回(2020年9月26日)を読み返して戴けたら有難い。中国語学習、露店の犬肉売り、それに乞食の生態と共に思い浮かぶ五洲大廈について記すのは、もう少し先に延ばそうと思う。ということで、九龍城の思い出を。
漢字では「九龍寨城」とも「九龍城砦」とも記す九龍城だが、城とは言うものの日本の城のように敵を防ぐための堀やら堅固な石垣やら、さらには豪壮華麗な櫓や天守があるわけではない。「城」は街を意味し、1998年まで国際空港であった啓徳機塲の空港ビルの目と鼻の先に位置していた高層雑居ビル群を指す。英語表記は「Kowloon Walled City」。
アヘン戦争前後まで遡って歴史を簡単に辿ってみると、清朝が築いた砲台から出発した九龍城は場所的にも住民の背景からも、さらには香港をめぐる内外政治力学の関係からも、いわば権力の「三竦み状態」のなかで時を送ってきた。これが「三不管」の実態だ。
住民の反抗の完全制圧を狙って殖民地政府が影響力を及ぼそうとすると、清朝は反対する。だが、かといって清朝には殖民地政府の影響力を完全排除し、同地を自らの支配下に置くだけの実力はない。住民は殖民地政府にも清朝にも素直に従う、わけがない。
じつは日本占領期(1941年12月~45年8月)には城壁を取り崩し啓徳機塲拡張工事に使ったから、日本も九龍城に全く関わり合いがない、というわけでもなさそうだ。
大陸で国共内戦が戦われていた1947年、宗主国のイギリスは城内管轄権を持つことを宣言したが、これに中華民国政府が反発し外交問題化する。そこに国共内戦から逃れた難民が流れ込み住民人口が増加すると共に、居住が固定化してしまう。いわば居座ったモン勝ち。上に政策があろうがなかろうが、ともかく下は対策を実行に移してしまうのだ。
1951年には火災を機に殖民地政府が強制的に区画整理を試みるが、住民の抵抗を受け事実上断念せざるをえなかった。
1952年前後を境に、殖民地政府(A)も強いて政治介入することなく、ましてや北京の共産党政府(C)の影響が及ぶわけもなく、かといって住民(b)が殖民地政府からも共産党政府からも独立した自治組織を持てるわけもない。AとCが強いて力を及ぼさないままにbがノビノビと、自由闊達(勝手?)に生存空間を拡充することになった。
この頃から麻薬、賭博、売春、いかがわしい医院などが目立つようになり1953年には脱衣舞(ストリップ)興行まではじまり、おどろおどろしきイメージが肥大化する。
これではマズイと、1963年には住民の手で相互扶助を目指した街坊福利会(城砦福利会/東頭村道・栄発楼16楼)が組織され、環境整備と治安改善へと動き出す。香港暴動が起きた1967年には、周辺に生まれたスラムの強制撤去をめぐり、住民と警察当局との間でひと悶着が起きる。2年後の1969年には九龍城民政区の整理が実施されている。
1971年には慈善団体が老人介護施設や幼稚園を開設する一方、最後まで残ったストリップ劇場「新華声」が営業を閉じる。当時の人口は推定で5万人。高層ビル化が進んでいた。
かくて足繫く通っていた頃の九龍城は、有終の美を迎えようとしていたのである。《QED》