――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港89)
なぜ、日本人観光客が到底足を運びそうもない地域に、日本人専用としか思えない小じんまりしたホテルがあるのか。その理由が分からなかった。それというのも金門酒店では、日本からの観光客らしい観光客を見掛けたことがないからだ。
当時、日本では1955年にはじまった高度経済成長が続き(~73年)、団体による海外旅行が盛んで、「夢に見た憧れの国ハワイ・・・海外旅行はJALパック」の時代だった。香港でも、街を歩くと日本人団体観光客を乗せた大型バスを見かけることも少なくなかった。
尖沙咀の先端近くに威風堂々の構えを見せていた格式高い半島酒店(ペニンシュラ―・ホテル)など超一流のホテルを除いた多くのホテルの周辺には、日本人観光客相手のブランド品の偽物(「偽のホンモノ」ではなく、「本当のニセモノ」)やイカガワシイ品物を扱う土産物屋が軒を連ねていたものだ。ところが金門酒店の周囲には、その手の店は皆無。だから不思議。
だが、ロビー右手の日本料理レストランに通っているうちに、聞くともなく聞こえてくる客の会話からなんとなく分かってきた。どうやら金門酒店は、日本から中国に派遣される友好商社員向けのホテルのようにも思えた。
当時、正式に国交がなかった日中両国の間では、「日中長期総合貿易に関する覚書(通称「LT協定」)と呼ばれる“民間協定”に基づいた貿易取引が行われていた。この取引を担っていたのが友好商社で、特に「友好」の2文字が冠されていることからも分かるように、中国側の言い分をほぼ全面的に認める――中国政府の言いなりになる、いや唯々諾々と従う、いやいや“拝跪”する――ことを条件に中国との貿易に参画できた。極論するなら「友好」の2文字には「採算を度外視」してでも、という意味が秘められていたはず。
それもこれも、中国の秘めた経済的可能性――膨大な人口と豊富な天然資源――を考えてのことだったに違いない。であればこそ大商社も将来を見据えてダミーの形で友好商社を傘下に置いていたが、やはり大部分は中小規模だった。弱小なればこそ、中国政府の意向のままに動かざるをえなかっただろう。
当時、大学といわず語学学校でも中国語学習者は少なく、中国語を武器にした就職口は限られていた。その限られた就職口の1つが友好商社であり、中国語がデキた先輩の何人かは勇躍と友好商社入りしたものだ。そんな先輩の姿を、友好商社に入れば中国に行ける。中国の土を踏めると、羨ましく思ったことを覚えている。
当時、外国人バイヤーは春(4月)と秋(10月)の年2回、広州で開かれる「広州交易会(正式名称「中国進出口商品交易会」で、第1回は1957年春開催)」に参加していた。中国が外の世界に向けて開いていた窓口は、ここしかなかった。だから当然のように、毎年春秋の2回、金門酒店も日本人客で賑わいを見せるようなる。
金門酒店と同じように比較的安価な日本料理を口にできるホテルをもう1軒、偶然に見つけた。富都大酒店(フォーチュナ・ホテル)である。夜店が並ぶ廟街(既出)の近くにあり、弥敦道(ネーザン・ロード)に面し、隣が豪壮な意匠の普慶戯院だった。国慶節などの祝日には特別な催しがみられたから、中国系の劇場だったに違いない。この劇場での思い出は、また別の機会に。
富都大酒店の日本料理レストランは金門酒店と同じで、ロビー右手に在ったような。ここでも日本の新聞や雑誌が読めたが、新聞は最大で10日ほどの遅れ、『文藝春秋』などの雑誌は数か月遅れ。それも手垢に塗れていたところを見ると、ここに泊まった多くの日本人客によって幾度となく繰り返して読まれたに違いない。正直なところ、味も客筋も金門酒店の方が上だったような。とはいえ、どんぐりの背比べに近かったようにも。《QED》