――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港19)
モノはついでと言うから、当時の香港の阿Qたちの仕事ぶりを思いつくままに綴ってみたい。
例の歌庁辺りの裏町を歩くと、ビルの壁に鏡を立て掛け、その前に木製の折り畳み椅子を置いただけの床屋があった。もちろんバケツに水を用意して、ヒゲを剃ってくれれば洗髪もしてくれる。もっとも店を構えた床屋では、散髪、髭剃り、洗髪、整髪はそれぞれ別の職人が分業して当たってくれた。
ビルの陰の路地に並んでいたのは繕い物を商売にするオバさんたちで、歩道に持ち出したミシンを踏んで商売に励んでいる。時に、オジさんの同業者が混じっていることもあった。オジさんの中に大陸から逃れてきた元国民党の将軍がいるなどといった噂が、まことしやかに流れるような時代だったが、考えてみれば当時は、国共内戦で共産党が勝利し、国民党が中国から追い出されてから20年ほどしか経っていなかったわけだから、繕い物で生計を立てているオジさんのなかに、共産党の追及を逃れ命からがら香港に辿り着いた元国民党の“落魄将軍”がいたとしても、決して不思議ではなかった。
小さな椅子に腰かけて客待ちしているのは、女性客の顔の産毛を抜くオバさんだ。先ず客の顔に白い粉をはたきかけてから、2本の糸の片方の端を歯に挟み、両手を使って巧みに縒りを掛けながら、顔面すれすれに張った糸の縒りが戻る反動で産毛を抜く。何時、何処で、誰が、こんな方法を考えついたのか。いくら見ていても飽きない匠のワザだった。
野菜市場の近くでは婆さんたちが蹲り、豆もやしのヒゲを丁寧に取って、もやしの1本1本をキレイに並べている。これも商売だが、一帯の怪しげな雰囲気からして、日が暮れて一帯が紅灯の巷に変じる頃になれば、彼女らはヤリ手婆にヘンシンしたのだろうか。
市場巡りで強烈な印象を受けたのが、例の中国式の丸い分厚いまな板と庖丁1本で肉を解体するオジさんだった。赤銅色の肌に中国人特有の半ズボン。それにシャツの裾を捲り上げて大きな腹を出したまま。片手でまな板をぶら下げ、片手で刃渡り30センチほどの半月型の分厚い庖丁の柄を握っている。さも重そうな包丁の刃はキラキラ光っていて、見るからに切れそうだ。オジさんの後ろをついていくと、やおらまな板を地面に置き、牛肉を左手で押さえ骨を断った。ものの見事に真っ二つだ。スゴワザと感心して左手を見ると、親指が根元から無い。聞くと、「以前、手許が狂っちまってな」。その瞬間の背中の“ゾクゾク感”は半世紀ほどが過ぎたいまでもハッキリと覚えている。
歩道にはオモチャ、衣料、日用雑貨、学用品などを商う物売りが並んでいた。もちろん違法だから、要注意は警官の臨検だった。そこで警官がやってきたら直ぐに逃げられるよう数々の工夫を施す。“創意工夫”には舌を巻くばかり。たとえば歩道に四角い大きな布を拡げ、その上に商品を並べる。立ったまま口上をブツが、彼の手許を見ると布の四隅に縫い付けられた4本の紐の先端をシッカリと握っている。その横では、大き目な段ボール箱に商品を入れて売っている。よく見ると、商品の入った箱は深い上蓋に乗せられていた。
道路の端の方に立った仲間が警官を認めて合図を送ると、4本の紐をグッと手繰り寄せ商品もろとも背中に担いでスタコラと逃げる。段ボールの場合は、上蓋をして肩にヒョイっと担いで、これまたスタコラ。かくて「走鬼(トンズラ)」となる。まさに走鬼を前提にした“店構え”だった。警官が咎めると「荷物を運んでいます」と逃げの一手だ。警官の方でも分かっているが、余程の悪質でもない限りは見て見ぬふり。持ちつ持たれつ、である。
外国人観光客相手の「鬼?小販」と呼ばれるモノ売りも街頭をうろついていた。イギリス、アメリカ、ブラジル、ネパール、インド、パキスタン人などの喰いっぱぐれの長期滞在者らしく、流暢な広東語を操る。扱っていたのは高級ブランドのニセモノだった。《QED》