――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港23)

【知道中国 2141回】                       二〇・十・初二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港23)

 「毛主席万歳」にしても「ぢ」にしても、共に香港においては必要なくなった。だから巨大看板を“撤去”したと考えるなら、「毛主席万歳」の方は兎も角も、好意的に考えて香港では痔疾に悩む人がいなくなった。あるいは少なくとも減少に向かっていた。それならばそれで、ヒサヤ大黒堂が香港に刻んだ功績は特筆大書しておくべきだろう。

 モノはついでと言うから、当時の香港における日本企業のイメージを綴っておきたい。

 当時の日本製品の進出振りは凄まじく、街を走っているタクシーや庶民の足でもあった乗り合いミニバス――14人乗りだったから通称は「十四車(サップセッ・チェー)」――も、無骨で居住性が悪いドイツ製から軽快なトヨタやニッサンに変わりつつあった。日本では馴染みの「トヨタ」や「TOYOTA」だが、香港では漢字で「豊田」。旧字体で「豐田」、あるいは大陸の簡体字を使って「丰田」の表記もあった。だが、これではどうにも「トヨタ」のイメージが湧かない。日本が誇る自動車のトヨタはトヨタでありTOYOTAではあるが、決して豊田、ましてや豐田ではないだろう。

 街で見掛けた日本企業の看板で最高傑作だと思ったのが、「National 國際牌」だった。現在は「パナソニック」と代わったが、当時は「ナショナル 松下電器」のブランド(牌)で世界の白物家電業界に旋風を巻き起こしていた。「ナショナル」なら常識的には「国家牌」とすべきだろうが、敢えて「National 國際牌」である。そこには「國際」の2文字に世界の家電業界をリードしている自負と、さらに影響力を拡大するぞと言う野望が込められていたように思えた。半世紀昔、日本の製造業の心意気は世界を呑み込む勢いだった。

 閑話休題。

当時の体験も含め、香港における文革に就いて考えてみたいのだが、モノの順序として香港が経験した暴動の姿を簡単に振り返っておきたい。それというのも、香港で見られる暴動は、その時々の中国における政治を微妙に反映していたたからである。

おそらく、中国政治と香港との微妙な“相関関係”は2014年秋の「雨傘革命」においても、2019年6月からの逃亡犯条例反対運動においても考えられるはず。いや、そう考えない限り香港の問題は解けそうにない。独裁VS民主、強権VS自由といった単純な図式で割り切れるほどに、漢族の政治は単純明快ではないことを心得ておくべきだろう。

第2次大戦前については2129回(香港11/九・初八)に記しておいたので省略し、ここでは大戦期前後以降をみておく。

第2次大戦が勃発するや、連合国側に与した蔣介石はルーズベルト大統領の支援を受け、イギリスに香港返還を求める。だが、チャーチル首相は「第2次大戦で獲得した国境線は崩さない」とするスターリン首相とガッチリと手を組んで拒否した。しょせん大国とは身勝手で強欲なものだが、蔣介石にとって不都合だったのは頼みのルーズベルト大統領が急死してしまっただけではなく、後任のトルーマン大統領とソリが合わなかったことだ。かくて蔣介石の意向を無視し、香港は米・ソ・英の3大国の手でイギリスにも戻されてしまう。

 かくて日本占領(1941年12月~45年8月)が終わるや、イギリスは宗主国として香港に舞い戻ったのである。

 以後、中国では国共内戦を経て共産党政権が成立し、毛沢東独裁が強化されるに従って多くの避難民が香港に逃れる。1958年に始まった大躍進政策が失敗したことから「大逃港」と呼ばれる大量難民の香港流入が発生した。

 やがて1960年代に入り経済基盤も固まり、落ち着きを見せ始めた頃、「香港暴動」が起きる。火元は、当時の香港経済の象徴でもあったホンコン・フラワーの工場だった。《QED》


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