――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港24)

【知道中国 2142回】                       二〇・十・初四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港24)

前年に中国で発生した文化大革命に狂奔する大陸の「革命群衆の熱気」に煽られた香港左派が、1976年5月に新興工業地帯である新蒲崗のホンコン・フラワー工場の労働争議に介入し、警察との衝突事件を引き起こした。これをキッカケに過激な街頭行動へ。

当初、左派労組が中心になって闘争委員会を結成し、交通・公共機関の大規模ストライキに発展したが、7月を機に殖民地当局は力に制圧に転じたことで、香港左派は戦術をエスカレートさせ爆弾テロで対抗した。

当時、香港左派の背後に「広東王」と呼ばれ、広東省を拠点に中国南部で絶対的影響力を保持していた陶鑄や共産党広東省委第一書記(当時)であった趙紫陽の存在を指摘する見方もあった。彼らは共に毛沢東が敵視した劉少奇に連なる「実権派」とされていた。また1979年になって『人民日報』は「香港暴動は、周恩来打倒と周が指揮する統一戦線工作破壊を狙った四人組の策動であり、周の反撃によって暴動は収束した」と報じている。

いずれの説が正しいかは不明だが、香港での大きな政治的運動が中央政府部内の権力闘争に連動していることは、疑問の余地はないところだろう。

爆弾テロなどによって51人の命が失われ、800人を超える重軽傷者を出して香港暴動は幕を閉じた。

 じつは香港左派は社会面、資金面、組織面、さらに思想面でも極めて複雑に入り組んでおり、共産党政権が対外開放・社会主義市場経済路線に踏み込んで以降、複雑さは増すばかり。反中過激左派まで活動しているほどだ。これに共産党上層の権力闘争が加味し、さらには海外の様々な勢力による反中工作が加わるわけだから、いよいよ以って魑魅魍魎の迷界に突入せざるをえなくなってしまう。だからこそ日本式単純明快さでシロクロを決することに前のめりになってしまったら、事態の真相を見誤ることになりかねない。

やはり自らの抱く思想信条・政治思考(嗜好)というモノサシを一端は脇に置いて、漢族の奇妙奇天烈極まりない政治に目を向けるべきだ。それは2014年秋の雨傘革命にも、さらには昨年6月の逃亡犯条例問題以降の過激な反中街頭闘争においても見られるのである。

 1970年秋、私が香港留学生活を始める直前の10月10日の国慶節、香港島と九龍の間のヴィクトリア港に臨んで立つ招商局(前身は1872年に李鴻章発案で創業された。中国政府所有の複合企業。現在は招商局集団)の16階建てビルの4階から10階までを覆う巨大な毛沢東の上半身像が掛けられていた。

 人民服を着て右手を上げた巨大な毛沢東が、香港経済の繁栄の象徴であるヴィクトリア港に集まる船舶を見下ろしていたというわけだ。その下には「中華人民共和国万歳」「偉大的領袖毛主席万歳」「慶祝中華人民共和国建国二十一周年」の巨大な看板が掲げられていた。

招商局の最上部には、巨大な「毛主席万歳」の5文字が掲げられ、その上には巨大な4本の五星紅旗が翻り、中央部には巨大で、真っ赤な星が鎮座ましましていた。おそらく系列企業のビルだろう。周辺のビルの屋上にも巨大な「毛沢東思想万歳」の文字が掲げられ、その上部には巨大な五星紅旗が林立していた。何から何までが巨大であった、とか。

 たしかに香港の、それも極く一部の“珍奇な光景”ではあるが、これもまた当時の香港の姿でもあった。1971年冬には、香港左派系労働組合の支援を受けた失明労働者の待遇改善運動があった。香港島のビジネス街の中心で行われた彼らの座り込みデモを見に行ったが、彼らの背後に張られた巨大な横断幕は白地で、そこには墨痕鮮やかに「不怕飢餓 不怕烈日」「剥削 剥削! 再剥削! 便是香港的繁栄!」と書かれていたことを思い出す。

 第一日文での熱心な質問をキッカケに親しくなった中国系デパートの中間管理職から、70年代後半の香港左派の活動、いわば“香港での文革”を教えてもらうことになる。《QED》


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