――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港96)

【知道中国 2214回】                       二一・三・念四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港96)

 

香港島の東華義荘、粉嶺の墓地、金塔、長生店など死に関連する事柄に、なぜ興味を持ったのか。留学前には思いつきもしなかったことだが、敢えて理由づけをするなら、やはり漢族という存在に対する関心が根っ子にあるように思う。

想像するだけでも怖気づいてしまうが、埋葬した棺を掘り起こし、骨を取り出して異物を削ぎ落し、骨だけにした後に二次葬をする必然性はあるのか。なぜ、敢えてそこまでするのか。穏やかな方法で安らかな来世を願うことはできないのか。疑問は募るばかりだが、それが漢族の文化――《生き方》《生きる形》《生きる姿》――に発しているなら、そういった風習と彼らの死生観はどのように結びつくのか。永遠に解けそうにない謎のようだ。

香港住民を見ると圧倒的多数は広東人だが、潮州人、客家人、福建人、台湾人などに加え北方出身者など多種多彩だ。二次葬という葬送様式が一般化しているなら、漢族と一括りに呼べるだろうが、どうもそうでもないらしい。

二次葬は主に福建や台湾で行われてきたとされる。東南アジアの華人社会でも見られるが、彼らのルーツが中国南部のどん詰まりに当たる福建、広東、潮州だからだろうか。

半世紀に近い付き合いのある潮州系華人の畏友は母親が亡くなった際、30年ほど前に埋葬した父親の棺を掘り起こし、改めて火葬に付したうえで、両親の遺灰を一緒に葬っている。亡き両親に対するこのような行い(孝養?)を促す動機はなんのか。改めて深く考えたいと思う。写真に収められた父親の遺体を見せてもらったが、長い時の隔たりを感じさせないほど。不思議なことに、顔かたちは生前のそれに近かった。

洗骨という風習を漢族の北から南への移動に求め、移動の際に祖先の遺骨を持ち運ぶ便宜のために始まったという説もあるが、やはり俄かには信じ難い。

以前、ミャンマー中部に位置するマンダレー郊外の華人墓地を調査したが、棺は頭部から下肢に向けて細くなった形状で、全体を厚い石の板で覆い、地上にむき出しで置かれていた。もちろん、広範に見て回ったわけではないので断定はできないが、マンダレーから中国国境までの幹線道路沿いに見られた華人墓地では同じ形式だった。それは雲南省西南部を歩いた際に見た形式と同じだったことから、雲南省西南部とミャンマーの中部から東北部にかけては国境を挟んで同じ葬送文化が行われている。そこで、雲南系の大きな文化圏の中を政治的で人為的な国境が引かれているだけではないのか、とも考えた。

ここで敢えてミャンマー側と中国側の違いを指摘しておくなら、ミャンマー側の棺は遺体の頭に当たる部分が北方を向くように置かれていること。そこで咄嗟に、「北望神州――北に神州(ちゅうごく)を望む」という4文字が浮かんだものだ。

閑話休題。

ここら辺りで抹香臭い話を切り上げ、香港と広東省を限る深?河に沿った辺りの半世紀前の姿を綴ってみたい。

その名前が示しているように、九広鉄路は九龍の先端の尖沙咀駅と広州を結ぶ鉄道として1913年に全線が開通した(「英段」と呼ぶ香港側は1910年に、「華段」と呼ぶ中国側は1913年に完成)。だが、中華人民共和国建国に伴って鉄路は深?河で中断される。中国側は深?駅を終着駅とする広深鉄路となり、香港側は深?河に接した羅湖駅が終着駅となった。

だから中国入国に際しては羅湖でいったん下車し、荷物を持って深?河に架かる橋を歩いて渡り、改めて中国側での入国手続きを済ませ深?駅での乗車した。当時は一般の乗客は羅湖駅の1つ手前の上水駅まで。それというのも、香港側では深?河に沿ってイギリス駐屯軍(グルカ兵)によって厳重に管理された一般人立ち入り禁止地帯が設定されていたからだ。一方の中国側だが、香港とは比べられないほどに厳格だったに違いない。《QED》


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