――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港98)

【知道中国 2216回】                       二一・三・卅

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港98)

 

深?河の向こうに広がっていた農村地帯は21世紀初頭の現在では高層ビルが立ち並ぶ巨大都市へと大変貌してしまい、往時の鄙びた面影は欠片もない。さて、どこまでが香港だったのか、である。直に接することなど望むべくもなかった文革を、荒れる国土の端っこの端っこから垣間見ることができた半世紀前の感動が、いまや、やけに懐かしいばかりだ。

かつて深?河は、広東省宝安県の田園地帯を流れるこれといって特徴のない小川でしかなかった。

だが1898年になってイギリスが深?河と割譲地である九龍の間の田園地帯を「新界」と名付けて99年期限で租借したことによって、広東省の片田舎の名もなき小川は英中外交史にその名を留めることになる。イギリス殖民地と清国(後に中華民国)を限る、いわば19世紀の西欧列強による覇権競争における強者と弱者、勝者と敗者との間を分かつ厳然たる境界となったのである。

それから半世紀ほどが過ぎた1949年に中華人民共和国が建国されるや、深?河は資本主義と「赤い中国」との対立の最前線へと大変貌を遂げる。深?河に沿って、目に見えない限りなく高い政治的な壁が築かれたことになる。

毛沢東の独裁政治が強化される中で、1950年代末期の「反右派闘争」から無謀極まりない大躍進政策を経て文化大革命の時代まで、政治的迫害から逃れ、あるいは飢餓地獄からの脱出を目指す者にとって、深?河は最後の大難関だった。田園を流れる小川に過ぎない深?河の向こうに、彼らは死を賭して自由を求めた。

であればこそ、長い間、深?河は政治的には抑圧と自由を、経済的には統制・計画経済と自由放任主義を、貧困と豊穣を限る象徴的存在でもあった。

やがて毛沢東思想の軛を脱した中国が�小平の手で開放政策に転ずるや、深?の鄙びた農村地帯は経済特区へと大変身を遂げる。安くて良質で豊富な労働力を求めて雪崩れ込む香港をはじめとする海外企業(資本・技術)を受け入れ、深?は「世界の工場」への実験場となった。香港の企業が先を競って生産基地を深?河の向こう側に移したことで、経済特区はあたかも“第二の香港”の様相を見せ始めた。だが、依然として深?河は河の両側に住む人々の自由な往来を許さない高い壁だった。

1997年、香港が殖民地を脱し「中国回帰」を果たし中華人民共和国香港特別行政区に変貌するや、深?河は中国政府が内外に向かって公言した「50年不変」「繁栄の維持」という約束を果たすか否かの標識となった。1997年から2047年までの50年間、深?河で「一国」は「両制」に分かれたままで維持されるはずだった。「繁栄の維持」を欧米に見せつけるため、以後の中国政府は香港に多大の経済的特権を与え続けたのである。

だが習近平政権の一強化に伴うかのように、中央政府の香港に対する対応は変化を見せ始める。2014年秋に起こった「雨傘革命」を起点に、習近平政権は政治的介入の度を加え、結果として2019年6月来の若者らによる激しい街頭政治行動を誘発するに至った。

今年3月の全国人民代表大会での決議を経て、香港では「愛国者」以外の政治的活動は極めて困難になった。中央政府が是とする「愛国者」を基準とするなら、もはや深?河の両側の政治的環境に違いはなくなったと見なすべきだろう。もはや深?河に「両制」を保障する役割を求めることは期待できないだろう。

深?河の流れは昔も今も大きく変わってはいないはずだ。だが、その両側に住む人々の運命は時々刻々と変動止まない内外政治の動きを受け、変化を余儀なくされてきた。現在の習近平政権の香港に対する政策を改めて振り返ってみると、将来、香港を「一国」に統合するため方策として、深?河埋め立てという事態も考えられないわけではない。《QED》


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