――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港130)
かりに「愛国商人」にルビを振るなら「えちごや」であり、だから中南海の住人がオ殿サマやらオ代官サマになるわけだ。
オ殿サマの大親分であった当時、江沢民は“子飼い”の董建華を初代行政長官に据えたわけだが、董建華の下で特区政府の重要ポストを占め、短期だが長官代行を務め、2012年の長官選挙では多くの有力企業家の後押しを受けて立候補した唐英年こそ、唐翔千の長男である。「愛国商人」の息子は、やはり「愛国」というカラクリだろうか。
1952年に香港で生まれた唐英年は中学からアメリカ留学。ミシガン、エールの両大学を卒業後に香港に戻って家業の香港半島針織の経営に当り、多くの公職を務める一方、1971年には立法局(議会)議員に就任し、殖民地行政の一角に参画している。
いわばオ殿サマが殖民地政府(香港政庁)から共産党政府へと変化しようが、香港における唐一家は一貫して越後屋として振る舞っていたことになる。「二君に仕えず」などという“ヤワな信条”は唐家のみならず、おそらく圧倒的多数の企業家にとってボロ雑巾と同じではなかったか。役に立たなくなったら捨てるだけ。まさに越後屋は旧いオ殿サマの権力に陰りが感じられたら、巧妙に新しいオ殿サマに乗り換える。これを「支配されながら支配する」と言うのだろう。
国共内戦前後に上海から香港に拠点を移した企業家の典型をあと数人、人名辞典風に紹介しておきたい。
先ずは「海運王」で知られたY・K・パオこと包玉剛である。上海の銀行家出身で、1949年に香港に移り中国物産貿易から海運業に転じた。67年に大小のタンカーを爆買いし、環球航運集団を創立。80年には200隻超で総トン数2000万余を抱える海運王に。鄧小平とは肝胆相照らす仲であり、対外開放政策の私的アドバイザー役を務めたとも言われる。
1985年に香港基本法起草委員会副主任委員に選ばれた前後を機に、中国市場への投資に積極姿勢を見せる他、教育・慈善事業などにも乗り出す。ならば鄧小平がオ殿サマで、包玉剛は越後屋に違ない。
包玉剛は1991年に亡くなったが、その後を引き継いで二代目越後屋を演じているのが娘婿の呉正光である。
もう1人の「海運王」の董浩雲は、いまや習近平政権の“パシリ”と言った役回りを演じている董建華・全国政協副主席(初代・二代の香港行政長官)の父親。1920年代末から天津で海運業に従事。46年には上海に中国航運を創業し、翌年にはフランス、アメリカへの海運路線を開拓するなど、中国における遠洋海運の先駆者でもある。
50年に香港に拠点を移した後、コンテナー海運に着目し1973年に東方海外集装箱航業を創設。その後、傘下企業を董氏航運集団に集約。72年に炎上したクイーンエリザベス号は、「海洋大学」の創立を目指しアメリカのコロラド大学と共同購入したもの。
家業を引き継いだ董建華が経営危機に陥った際、救いの手を差し伸べたのが政権を掌握していた時代の趙紫陽だったとの話も聞かれる。あるいは共産党政権は、初代行政長官候補として董建華に白羽の矢を立てていたのかもしれない。
もう1人、日本では無名に近いが越後屋にピッタリの企業家がいる。上海生まれの安子介だ。1949年に香港へ。50年に華南漂染廠を、69年に香港南聯実業を創業。立法局議員(70~74年)の後に74年に行政局(殖民地政府)入りするなど、長年、殖民地行政の中枢で働く。85年には返還以後を危惧する香港の有力企業家を束ね北京入りし、鄧小平から返還後の香港に「一国両制」を行い、「50年不変」「繁栄の維持」の“言質”を引き出す。以来、香港の企業家は雪崩を打って北京主導の返還作業に合流していったのだ。《QED》