――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港22)

【知道中国 2140回】                       二〇・九・丗

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港22)

 ここで人口の推移を見ておきたい。

殖民地化直前の1841年は7450人。20年後の1861年には12万人ほど。辛亥革命が起こった1911年に46万人余。盧溝橋事件1年前の1936年が100万人の大台に1万人届かない99万人余。殖民地となって1世紀が過ぎた1941年に164万人。1936年から1941年の5年間の急増は大陸での戦乱に由るに違いない。かくて難民が大挙して流れ込む。

 戦争が終わり再び英国の殖民地に戻った1945年には65万人に激減。4年ほどの間に消えた100万人余は日本軍の統治を嫌って中国、あるいは東南アジアなどに流れた。

 ところが1年後の1946年が155万人だ。激増の100万人余は国共内戦を逃れ押し寄せた人々。このなかに、戦後香港経済の復興を担った浙江財閥がいる。彼らは共産党政権を嫌ったが、だからといって共産党中枢との人脈を完全に断ち切ったわけではない。商売になるなら誰とでも手を組む。中国が開放政策に転じカネ儲けに邁進するや、「愛国商人」の衣装を纏って�小平と手打ちして商売に励む。「利」の前には「理」は空念仏同然らしい。

朝鮮戦争が激しく戦われていた1951年には、200万人を突破した。

毛沢東が「百花斉放 百家争鳴」のスローガンを掲げて偽りの自由化運動をでっち上げた1956年に260万人。毛沢東が強行した無謀な急進的社会主義化政策の「大躍進政策」の失敗が明かとなり、中国全土が飢餓地獄に陥っていた1961年が318万人。この時期の急増を「大逃港」と呼ぶ。文革が開始された1966年が373万人。1951年から1966年までの間、毎年11.5万人余。どうやら1日平均で330人前後が流入していたことになる。

 1971年が405万人だから、おそらく私が香港で留学生活を始めた1970年前後に400万人を突破していたのだろう。毛沢東の死と共に文革に幕が引かれた1976年が445万人で、対外開放が始まって2年後の1981年に500万人を突破して516万人。大陸で人民公社解体措置が始まって2年後の1984年が536万人である。

 特区政府が公表している最も新しい統計では2019年末時点で750万人だから、香港の人口は1841年(7450人)から現在までの170年ほど1000倍強に膨れ上がったことになる。加えて70年代初頭から数えて半世紀で400万から750万にほぼ倍増である。やはり「木は動かすと死ぬが、人は動かすと活き活きする」らしい。

もちろん自然増もあるだろうが、大部分は170年ほどの全期間を通じて戦乱を逃れ、共産党を恐れ、独裁を拒否し、自由を求め、さらには一攫千金の夢を描いて中国から押し寄せてきた無告の民たち。香港は中国が抱えた矛盾が集大成され、希望と絶望が凝縮されたような場所でもある。かくして癒されることのない不安が暴動の引き金を引く。

1956年10月、難民や貧困者の専門収容施設が完成した直後の李鄭屋邨で、住民が掲げていた国民党旗を殖民地政府当局が撤去したことから混乱が発生した。当時、?介石を支持していた難民の多くは貧しい生活に不満と不安を募らせていた。

大陸で文革が始まった1966年の復活祭前後、尖沙咀の先端と香港島を繋ぐ天星小輪(スター・フェリー)の料金値上げに端を達した暴動が起こっている。

極め付きは1967年5月、大陸で猛威を振るっていた文革に煽られた香港左派勢力が起こした「香港暴動」――左派用語では「反英抗暴」――であった。

1970年11月に九龍側から初めて香港島を眺めた際、先ず目に飛び込んできたのは香港島の中央部に聳える中国銀行ビルの頂点に翻る巨大な五星紅旗であり、壁面の「毛主席万歳」の巨大な文字だった。それらに文革の余波を感じながら目線を下ろしてくると、たった1文字の巨大な「ぢ」の看板。痔の漢方薬専門で知られたヒサヤ大黒堂の広告である。

「毛主席万歳」VS「ぢ」・・・いつしか知らぬ間に、共に香港から消えていた。《QED》


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