――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港72)

【知道中国 2190回】                      二一・一・念八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港72)

 

先ず、元京都大学教授(フランス文学・文化研究)で文化勲章受章者の桑原武夫(明治37=1904年~昭和63=88年)に登場願おう。

父親が中国における食人の歴史を実証的に研究したことで知られる京都帝国大学教授の桑原隲蔵であることに象徴されるように、京大文化で純粋培養された“知性”を引っ提げて戦後の論壇に颯爽と登場し、戦後民主主義を闊歩し謳歌したリベラル派文化人の代表的存在。朝日・岩波文化人番付があるなら、さしずめ西の正横綱といったところか。

彼が中国を旅行したのは昭和30(1955)年である。55年といえば、日本では戦後の日本社会の大枠となった55年体制が発足し、中国では周恩来がアジア太平洋諸国の集団安保条約を提案する一方、文芸批評家の胡風批判が全国で巻き起こされた。かくて毛沢東思想で全国を徹底統制することで独裁体制確立への道を驀進しはじめた時期に当たる。

「中国には泥棒はいない」だけでなく、朝の公園で見かけた鸚鵡までが「『毛主席万歳』と叫ぶ」。見学した託児所では「やっとよちよち歩けるその幼子は、人の顔を見ると『さあおかけなさい』といい、毛主席はときくと、手を上げて『毛主席万歳』と可愛い声を出す」と感涙に咽ぶほどだから始末に悪いばかりか、正気の沙汰とは思えない反応である。やはり「赤い中国」の洗脳教育は空恐ろしいばかりに徹底している。

かくして帰路に香港に立ち寄った途端、資本主義に対する“憎悪”を爆発させる。

香港では「女性の服装はあでやかに、口紅は色濃く、世界のゼイタク物資はすべてここにある。ふところに金のあるかぎり、そこはふと自由の国のごとく見える。しかし、それは消費者の自由であって、生産者の自由ではなかった。植民地文化、それがいかに美しく見えようとも、私たちには無用である」と。いったい、なにを勘違いしたのか。香港を悪しざまに罵り、八つ当たりしたところで無意味、いや己の無知(無恥)を晒すばかりだ。

「植民地文化、それがいかに美しく見えようとも、私たちには無用である」とは、どの口がホザクのか。やはりアンタには言われたくはない。

京都大学がこの程度だから、東京大学もチョボチョボだ。

東京大学法学部教授で中国法制史研究の世界的権威として知られた仁井田陞(1904=明治37~1966=昭和41年)は、60年安保年前の1959年8月から9月にかけ、中国政治法律学会の招待を受け、中国訪問日本法律家代表団の一員として訪中している。

こちらも超ノー天気で、「『赤い中国』に犯罪者はいない。だから近い将来、中国に刑務所はなくなる」などと口走るほど。アホも休み休み願いたいもの。開いた口が塞がらない。

「赤い中国」の南の玄関・広州から香港に出た途端、仁井田の態度が一変する。

「きのうまで広州のホテルにいたときは、部屋に鍵をかけず荷物もほったらかしで気にしなかった。ところが今日、九竜のホテルに来たときはそうはいかなかった。『人を見たらどろぼうと思え』の世界に入ったからである」と言う始末。困ったセンセイでゴザイマス。

「赤い中国」は聖人君子やら謹厳実直のオヒトヨシが住む所で、香港は悪人の巣窟とでもいうのか。マトモな大人なら、香港だけが「『人を見たらどろぼうと思え』の世界」ではないと考えるもの。人間が日々の生活を営む当たり前の社会は、国境や民族、さらには生活程度の違いとは関係なく、凡そ「『人を見たらどろぼうと思え』の世界」であるのが常識だと思うが、東大を代表する知性はそうではなかったらしい。オカシナお方だ。

 そのうえ、こんなことまで言いだす始末だから最早処置ナシある。

 香港で「子供がよごれた手を出して物を乞うたこと」に「今更ながら驚」き、「私は中国の各地で、ことに上海の工人街で、多数の子供にとりまかれた。しかしその子供達は誰一人として、旧い時代の子供たちのようには手を出さなかった」と。今ならヘイトだ。《QED》


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