――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港137)

【知道中国 2255回】                       二一・七・念四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港137)

 香港の資産家の評伝や彼らが経営する企業集団の研究書を読むと、多く「地産致富」の4文字を目にする。彼らにとって「地産」、つまり不動産ビジネスこそが富に致(いた)」る王道と言うことだろう。

 じつは殖民地初期に財を成した何東(ヘンリー・ホートン)から現在に至るまで、香港経済は不動産ビジネスで動いてきたといっても過言ではない。流通、金融、カジノ、製造業などどのような職種で起業しようが、ほぼ例外なく不動産ビジネスに手を出す。不動産ビジネスで手にした資金を、「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」の手法で次の可能性に賭ける。成功したら、またまた不動産に投資し、さらに資産を増やす。

このような経緯を辿って不動産ビジネスを中核に、それまで関わった様々な業種の企業を束ねた企業集団というビジネス・モデルが誕生することになる。この方式は香港のみならず、台湾、東南アジア華人社会、さらには対外開放後の中国にも見られる。やはり不動産を柱にした家族経営というビジネス・モデルは、漢族(系)商業文化の主柱なのだ。

基本的に土地を押さえているのは殖民地時代は政庁で、特別行政区になったら特区政府(その背後に控える大旦那の共産党政権)だから、政治が土地を差配する構図は一貫している。であればこそ不動産取引に政治の力が陰に陽に作用するのは致し方なく、とどのつまりはオ殿サマと越後屋の“腐れ縁”に行き着いてしまう。

 越後屋の跳梁跋扈は返還が近くなるに従って激烈さを増し、北京のオ殿サマもまた香港に一層のチョッカイを出すようになる。北京ペースの返還作業に尻尾を振るなら厚遇し、靡きそうにないなら締め出す。アカラサマな現実を目にすればこそ、越後屋がオ殿サマに盾突くわけがない。

香港の「中国回帰」という“理”を掲げるオ殿サマの前で、越後屋は「愛国商人」の衣装を纏って“利”を覆い「忠字舞」を踊りまくった。「忠字舞」の「忠」の対象は文革時は毛沢東、香港では共産党政権・・・これが返還バブルから2014年の「雨傘革命」前後までの状況だろう。極論するなら、民主も共産も独裁も強権もあったものではなかった。 

この辺のカラクリを解きほぐさない限り、「雨傘革命」から逃亡犯条例改正運動を経て20年6月の香港国家安全維持法に収斂する数年に亘る混乱の真相は捉まえられないと思う。

 この問題は、いずれ別途に論ずるとして、いまは1970年代前半に華資が崛起するに至った状況を一瞥しておきたい。とはいえ経済に関する専門的知見を持ち合わせているわけではないので、香港経済研究者の馮邦彦が記した『香港華資財團 1841-1997』(三聯書店 1997年)を援用しながらになるのだが。

 1960年代、70年代に香港経済が成長したことで、製造業者から出発した新興華資は海運や航空、不動産、ホテル、テレビ放送などの部門に進出し、その過程で国際的な海運集団、豊かな資本を抱えた不動産開発集団が形成され、やがて香港経済を一貫して牛耳ってきた巨大イギリス資本に商戦を挑むようになる。香港経済の急成長の波に乗って急拡大した華資は香港経済に確固たる地盤を築くに至るわけだ。

 華資のなかでも注目すべきは、先ずは製造業だろう。

初期香港における製造業は、香港が貿易中継港としての役割を担ったことから派生した。主として船舶修理であり製糖業で、当然のようにイギリス資本の牙城だった。20世紀に入って華資の製造業者も現れ、ことに50、60年代に飛躍的に発達した。戦後経済復興と言う世界的潮流に加え、近隣で発生した朝鮮戦争とヴェトナム戦争による特需が追い風になったはず。そう言えば70年代前半、香港島や九龍の繁華街に屯す米韓両国帰休兵をよく目にしたものだ。米兵は遊びで、韓国兵は爆買いで、香港にカネを落としていったのだ。《QED》


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