――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港144)
民主派からすれば、弾圧の張本人の口から飛び出した「香港における民主法治の推進を断固として支持する」など片腹痛い、いや怒り心頭に違いない。だが、ここで習近平の「民主法治」は習独自のものであり、一般普遍的なそれを指してはいないことに気づくべきだ。
また習近平は自らの政治姿勢を「以法治国」で表現するが、この場合の「法」も「民主法治」と同じで普遍的な法を指し示しているわけではない。
習近平の説く「民主法治」の「法」、あるいは「以法治国」の「法」を例えるなら、『三国演義』のなかで苦境に陥った曹操が口にした「寧可我負天下人、天下人不負我(オレは天下に背いても、天下をオレに歯向かわせない)」であり、大躍進失敗の責任を問われた時に毛沢東が傲然と言い放ったと伝えられる「私は人の話を聞かない」のそれである。
もはや多くを語る必要はないだろう。香港から馳せ参じた越後屋を前にしてオ殿サマが口にした「民主法治」は香港でオレに背く行為は一切許さない。言い換えるなら究極の人治を指す。かくて上記の�と�を承認するなら、�を保障する。いわば「人治」の徹底を越後屋に申し渡したも同じであった。
「香港の長期安定と繁栄」を生命線としている越後屋にしてみれば、オ殿サマに盾突いたってロクなことはない。それは80年代半ば以降の事実が物語っている。
オ殿サマの逆鱗に触れたことで“共産党政権御用達”のカンバンを取り上げられ、中国市場での動きを急激にダウンさせざるを得なかった胡應湘や田北俊のような企業家もいたわけだから、恭順の意を示しておくのが得策と言うもの。やはり義侠心やら正義感、はては民主など越後屋に似つかわしくない。そこで、支配されながら支配するという越後屋の“常道”を突き進む道を選んだということだろう。
かくて2014年9月22日に「雨傘革命」の命運は決まってしまった。北京におけるオ殿サマと越後屋の闇取引を知ってか知らずか、6日後の9月28日、若者は街頭行動に打って出た。だが、オ殿サマと越後屋が手打ちを済ませてしまっているからには、どう足掻こうが「雨傘革命」の頓挫は始まる前から約束されていたも同然だった。
ここで李嘉誠を筆頭とする「香港工商専業訪京団」の主要メンバーを拾っておくと、李兆基、郭鶴年、呉光正、呂志和、鄭家純、李国宝、黄志祥、陳啓宗、李家傑、陳有慶、馮国経、王冬勝、馬澄坤、楊�、霍震寰、楊孫西、何超瓊、梁振英、許栄茂など。
彼らの多くは「過渡期」に設けられた各種委員会に名を連ね、香港明天更好基金会に大枚を持ち寄り、北京主導の返還作業に参画し、側面支援を尽くし、かくして中国ビジネスを積極的に展開させることができたわけだ。
彼らが経営する企業の2014年10月前後の株式時価額を総計するなら、なんと香港の株式市場の3分の2前後を占めていた。
ここで敢えて指摘しておきたいのは、彼らは例外なくオーナー経営者であると言う点である。オーナー経営者であればこそ、所謂「モノ言う株主」なんぞ大して気にはならない。黙らせればいいわけだから、越後屋は自分の思うがままに商いに徹すればいいだけのこと。
すでに記しておいたように、「地産覇権」の4文字で形容される香港社会は、中央の共産党政権(下請けとしての特区政府)=政治(A)、経済界(より直截に指摘すれば香港工商専業訪京団)=経済(B)、一般住民の意思=民意(C)の3者で構成されているわけだ。Aは強権を、Bは自らの企業収益を、Cは自由(=政治への民意の反映)を求める。つまりA、B、Cの3者は「三つ巴」の状態にある。AとCとが同一歩調を取ってBに経済の、あるいはBとCとが協力してAに政治の、それぞれの独占状況の“革命的解体”を迫るとも思えない。かくてA+B>Cという構図が崩せない。香港が抱える不都合な真実である。《QED》