――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港145)
なにやら堂々巡りに終始してしまったようだが、香港が基本的に殖民地(イギリス⇒中華人民共和国)であることを踏まえない限り、一切の民主化論議は絵に描いたモチの味について喧々諤々の論議をすると同じだろう。「地産覇権」という基本構造にメスが入った時に民主化論議は現実化し、新しい段階に進むことになるのではないか。だが現に伝えられる報道に由る限り、A+B>Cという構造に焦点を当てた議論は聞かれそうにない。
おそらくAは香港、マカオ、広東の先進9都市(広州、深?、仏山、東莞、恵州、中山、江門、珠海、肇慶)を包括する「粤港澳大湾区(グレーターベイエリア)構想」にBを?ませることで、A+B>Cという構図の維持を狙っているはずだ。
ここで疑問を1つ。じつは2014年9月末、「雨傘革命」を叫ぶ若者は「?中」を叫んで中環(セントラル)と銅鑼湾を走る道路の一部、それに九龍の繁華街で知られた旺角のメインストリートを中心に広い範囲を占拠した。「?中」とは中環(セントラル)地区の占拠を意味し、?中によって国際金融センターとしての香港の機能をマヒさせ、共産党政権に打撃を与え、交渉のテーブルに引きずりだそう。可能なら共産党政権の傀儡ではない民意に沿って行政長官を選べるよう選挙制度を劇的に改変させよう、と狙った。いわば香港住民が望む「港人治港(香港人による香港統治)」を制度面で実現させようとしたわけだ。
だが、それは失敗した。すでに見ておいたようにAとBが手打ちした以上、運動が始まる前から「港人治港」の願望は打ち砕かれていた。「のう越後屋、身の程知らずはタップリと懲らしめておかぬとのう」「御意!」「ブハッ、ぶはッ、ブハハハハッ!」である。
たしかに中環は国際金融センターとしての香港の心臓部であり、この街が機能不全に陥ったら共産党政権の国際社会における面子は丸潰れに近い。だから「?中」の狙いは間違ってはいない。だが、当時現地を歩いて気づいたことは「?中」とは名ばかり。実際に占拠したのは中環の外れでしかなく、当初目指したような国際金融センターの機能に壊滅的打撃など与えられるはずもなかった。他の2か所にしても幹線道路とはいうものの、A+Bの喉元に“匕首”を突き付けたとは思えない。極論するなら一種のポーズでありガス抜き。いわば大騒ぎした割には、予め掲げていたほどの効果は上げられるはずもなかったのだ。
巧妙に“的”を外した運動。最初から失敗が仕組まれていた運動――これが「?中」運動の現場に立っての偽らざる感想だった。これが的外れではないとするなら、では誰が「?中」運動を仕掛けたのか。1967年の香港暴動の例に倣うなら、背後に共産党最上層における権力を巡っての暗闘が絡んでいたようにも思われる。それは2019年6月の反逃亡犯条例運動以降を起点として、2020年6月に制定された香港国家安全維持法へとつながる一連の動きにも指摘できるはずだ。どう考えても民主を激しく希求する“純真な若者の熱情”だけでは解き得ない難問が、一連の運動の根底に潜んでいるように思えて仕方がない。
香港とは、19世紀40年代前後から現在に至る中国の歴史が錯綜し、長年に亘って関係各国の利害が渦を巻いてきた。香港は自らで自らの運命を決することができない「メビウスの環」のなかに置かれたままに過ぎてきた。その一方で、激動する中国の影響を避け難いだけに、その立場と役割を微妙に変化させざるを得なかった。そして現在のみならず将来も、ほぼ確実にそうだろう。
――ここら辺りで固い話は切り上げることにして、本題の70年代前半の香港に立ち還ることにしたい。そこで綴らねばならないのが、我が香港生活そのものとも言える京劇との出会いである。というわけで、これから始まるバカ話のテーマは「余は如何にして戯狂(きょうげきくるい)となりし乎」といったところ。内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』をパクったようで本当に、やはり、些か心苦しいところではあるが・・・。《QED》