――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港48)
当時の香港において、文革は中国系の書店や映画館から街頭に飛び出すことが出来なかった。飛び出したところで一般には相手にされなかっただろうから、自然消滅だったろう。
その理由を考えるに、香港の人々が香港の将来に希望を持ち、香港を縛る殖民地という仕組みに特段の反発を持つこともなく、敢えて殖民地という立場を受け入れる日々を送る一方で、共産党に対する一種の耐性を身に着けるようになっていたからではなかったか。大躍進の悲劇を知るがゆえに、香港の人々が文革にマトモに向き合うわけはなかった。「魂の革命」なんぞと言う寝言・戯言にマトモに付き合ってはいられない、であっただろう。
殖民地の色を極力薄めようとする香港政庁(殖民地政府=宗主国)の試みを、香港の世論が「是」として迎えた。いわば殖民地である香港を基盤にして、政庁と香港住民の間で「双贏(ウィン・ウィン)関係」が成り立ち、この関係に共産党政権は四の五の文句が言えなかった、或いは口を差し挟む余地を見いだせなかったのではなかろうか。
現在のように敢えて「香港人」を名乗ることで「中華人民共和国国民」を拒否することも、ましてや街頭で武器を手に「時代革命」のスローガンを掲げ「独立」を叫ぶ必要もなかった。共産党政権の影響が一般住民の日常生活にまで及ぶはずもかったのである。
共産党政権にしても、「絶対無謬」「百戦百勝」のカミサマがおっぱじめてしまった文革への対応に翻弄され、香港どころの騒ぎではない。ともかくも制御不能近くまで増長してしまった紅衛兵という「毛沢東思想原理主義集団」を押さえ込み、社会生活の歯車を正常レベルにまで引き戻し、国家としての威厳と体裁を整え、政府として上意下達の統治システムを再構築することが先決であり、率直に言って「殖民地としての香港」に関わり合っているヒマはない。費用対効果を考えるなら、国際社会と摩擦を起こしてまで「回収」する必要はない。裏を返すなら、取り返せる時期が来たら取り返せばよかった。
やはり当時の香港は統治のカラクリから言うなら「英人治港(イギリス人による統治)」だったが、限定的とは言うものの香港住民の要望を汲み取りつつ政治参加の道を拓こうとしていた。いわば「港人治港」に一歩も二歩も歩み出そうとした時期ではなかったか。
おそらく「治港(香港統治)」に関して「英人」と「港人」の間のバランスが崩れるキッカケは毛沢東の死であり、共産党政権が国是を政治(革命)から経済へ、対外姿勢を閉鎖から開放へと大転換を果たした1978年12月の改革・開放政策にあったはずだ。中国が対外開放に踏み切ったことが、皮肉にも香港住民の悲劇の始まりとなるとは・・・。
対外開放に踏み切った中国を、西側世界は世界に向かって巨大市場が開かれる好機と捉え大歓迎した。当然のように香港で得られる富より巨大な中国市場が秘める経済的将来性の方が大きいと踏んだであろうイギリスは、香港を棄て中国を選んだ。かくて香港はイギリスの殖民地から中華人民共和国特別行政区という新たな殖民地へ。運命の大転換となる。
ここで香港における文革前後の状況を簡単に振り返っておきたい。
文革に煽られた香港左派が1967年に起こした反英闘争(「香港暴動」)は、広東省を制圧した紅衛兵の支持を受けたものの、共産党中央の文革派は口先での過激な支援はするが、どうやら資金援助は極めて限定的だったようだ。香港住民は、それ直感した。
ここで唐突ながら視点を換え、水について考えたい。
すでに1963年時点で、中国からの水の供給が止まったら香港は生きてはいけないことが分かっていた。その後、海水の淡水化事業などを進めたが、やはり中国からの毎年10億ガロンは必要不可欠だった。だから中国側がバルブを閉めたら、香港は干上がり住民は死ぬしかない。だが中国は水の供給を止めなかった。水を“人質”にしなかったわけは、当時の共産党政権はイギリス殖民地と言う香港の現状維持を容認していたからだろう。《QED》