――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港139)
今から60年ほどを遡った1960年前後、日本でも香港フラワーと呼ばれるプラスチック製造花が流行ったことがある。多くの家庭で飾られ、街にも出回っていたはずだから、ある年代以上の日本人は頭の片隅に記憶していると思う。
名もない多くの日本人が香港フラワーに投じたカネが回り回って李嘉誠の手許に?き集められ、不動産投資に回され、香港の不動産価格を吊り上げ、「地産覇権」「財閥独裁」という香港社会のカラクリを堅牢なものに仕立て上げた。世界最悪の貧富の差を生み、そして李嘉誠を「超人李(スーパーマン・リー)」「香港首富(香港一の金持ち)」に押し上げたわけだから、じつに不思議な巡り合わせ。やはり世界は複雑系で動いているに違いない。
60年代中期、銀行危機と香港暴動が重なるや、不動産市場は一気に冷え込み、不動産相場は空前の値崩れを起こす。多くが所有するビルや住宅を手放し現金に換え、香港脱出組も少なくなかった。たとえば香港島の半山区と呼ばれる緑濃い高級住宅地では13、4万元の物件が4、5万元。まさに願ってもないような買い手市場が出現する。かくて李嘉誠は低価格の土地と建物を買って、叩いて、徹底的して買いまくった。
70年代に入るや、李嘉誠は香港フラワーの先行きに見切りをつけ、不動産ビジネスに本腰を入れる。71年6月長江地産を創立し、1年ほどが過ぎた72年8月には長江実業(集団)に改名し、新興華資の不動産ビジネスとしては不動の地位を獲得する。
その時、折よく株式市場が活況を見せ始め、香港は暫しの株式ブームに沸きに沸いたものだ。猫も杓子も株、株、株・・・幸運が幸運を呼んだわけだ。
2156回で記しておいたことだが、仏頂面が代名詞だったような全漢昇先生が教室に入るなり破顔一笑。中国経済史の講義などそっちのけ。満面の笑みを湛えながら株を当てた自慢話をしてくれたのも、この時期だったのかもしれない。やはりアブク銭は堅物も狂わす。
さて李嘉誠である。この株式ブームに一気呵成の大勝負を賭けた。これを商機と捉えた彼は72年11月1日に上場に踏み切り、大量資金の調達に成功する。他の同業者も彼に倣い、72年から73年にかけて、不動産業者の株式上場ブームが巻き起こる。
改めて2253回に列記した不動産企業を眺め返すと、その大半がその後の返還バブルのなかで確実に規模を拡大し、併せて中国大陸での不動産ビジネスを展開していることが見て取れる。
70年代半ば、不動産業界では依然としてイギリス系資本が影響力を発揮していた。だが総合的な力では新興華資が勝り始め、イギリス系資本に落日が迫っていたのだ。
最後に株式取り引きを見ておくことにする。
香港の株式市場は当然のように長期にわたってイギリス系資本の独壇場であり、70年代以前をみると上場企業の70%はイギリス系資本であった。72年の株式投資ブームの際も、依然としてイギリス系の4大商社が覇を競っていた。だが、70年代に入って以降の華資の躍進は目覚ましく、いつしかイギリス系資本の独占状況に風穴が開き始めていた。
78年の株価上位30社のうち華資は12社。それが3年後の81年には30社中19社にまで増加している。19社を見ると、総合企業では和記黄埔、隆豊国際、不動産開発では長江実業、九龍倉、新鴻基地産、新世界発展、佳寧置業、国際城市、恒隆、合和実業、希慎興業、大宝地産、銀行では東亜銀行、永隆銀行、海外信託銀行、友聯銀行、ホテルでは美麗華酒店、建設では青洲英?となるが、基本は家長が絶対的な経営権を掌握している家族経営で共通している。
70年代前半には、新興華資と東南亜華資が合体しイギリス系資本追撃の時代が幕を開ける。80年代以降、返還が現実の政治日程に上るや、北京のオ殿サマが絡んでくる。《QED》