――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港134)

【知道中国 2252回】                       二一・七・仲七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港134)

 まさに「香港暴動」のドサクサこそが、B、C級の企業家を「地産覇権」の覇者に押し上げる跳躍台となったわけだから、たしかに「人間万事塞翁が馬」である。あの時、李嘉誠たちが「香港はヤバイ。未来はない」と逃げ出していたなら、1997年に向けて膨張していった「返還バブル」の恩恵には与かれなかったはずだ。

 であればこそ「香港暴動」を背景とする「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」に賭けた李嘉誠、郭得勝(郭炳湘・炳江・炳聯の父親)、李兆基、王徳輝らこそ、「香港暴動」の勝ち組といえるだろう。

 大陸で毛沢東が「(文革における)勝利の大会」と晴れやかに宣言した第9回共産党全国大会から半年程が過ぎた1969年11月、後に「愛国商人」と変じ対外開放された中国市場に積極進出することになる安子介、唐翔千、周文軒が南聯実業を創業している。当時の香港で最大級の紡織企業だった。

翌月、李福聯ら有力企業家が遠東証券交易所を設立している。長期にわたって香港の株式市場を壟断してきたイギリス資本に叛旗を翻したわけだから、まさに香港における華資にとっての“新世紀”のはじまりと言えるだろう。

 70年に入るや、華資が本格的に動き始めた。

 鄭裕?が新世界発展を創業し、71年になると、イギリス資本の太古洋行(Swire & Son)が尖沙咀に保有していた倉庫の跡地を買収し、総合商業施設の新世界センターを建設する。李嘉誠は長江地産を設立し、71年8月に長江実業集団と改名し、不動産ビジネスに本格参戦することになる。Y・K・パオはイギリス資本の総本山ともいえるHSBC取締役会入りした。どうやらイギリス資本に黄昏が兆しはじめたようだ。

 同じ71年には、シンガポールの中心であるオーチャードロード一帯を押さえたシンガポールの「不動産王」黄廷芳が息子を引き連れて香港に乗り込み、信和地産を創業する。

 72年7月、郭得勝が新鴻基地産発展を創業し、翌月には上場した。

 この年、マカオでカジノ・ビジネスを経営するスタンレー・ホー、霍英東(ヘンリー・ホック)などが信徳集団を創業し、カジノを基盤に堅気のビジネスに本格参入する。もっとも中国人の感覚ではカジノは娯楽だから、最近の日本でみられるようにIRなどとカムフラージュする必要は全くない。正々堂々カジノはカジノ、である。

ついでに言っておくなら、この両人、カジノ・ビジネス創業当初はマカオや香港の顔役たちと共同経営していたが、いつしか彼らと手を切ってしまった。というより、彼らを切り捨ててしまった。やや戯画化して表現するなら、この2人は黒社会の大親分より怖い堅気の企業家(?!)ということになるわけだから、やはり怖い。それというのも歴代共産党首脳陣とは超の字がつくほどのゴ昵懇の間柄であり、ヒョットして彼らの保?(ようじんぼう)は人民解放軍か公安か。これなら怖いものがあるワケがない。

因みに霍英東が務めた主な公職を示してみると、香港基本法起草委員会委員(1985年)、港事顧問(92年)、香港特別行政区籌備委員会予備工作委員会副主任(93年)。全国政協常委(第5、6期)、全国政協副主席(第8期)、全国人代代表(第7、8期)。ガンに侵された晩年は北京で送っているが、共産党政権は最高の医療態勢で応じている。2006年没。

ここまでの厚遇の遠因は朝鮮戦争。海上封鎖の間隙を縫って物資を届けたことで、苦境に立った共産党政権を救ったと言われる。いわばオ殿サマに苦境を救った越後屋であり、中国風に言い換えるなら井戸を掘った越後屋だろ。オ殿サマと越後屋の関係は朝鮮戦争まで遡ることになる。じつは長孫の霍啓剛が2012年に結婚した相手が中国の女子飛び込みのオリンピック選手で、奔放な言動で物議を醸した郭晶晶とは・・・摩訶不思議。《QED》


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