――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港170)
妻の貞節を試そうとは、儒教思想と共に伝統文化の根幹である老荘思想が説く無為自然にはほど遠い。そのうえ幻術まで持ち出すのだから、率直に言って“色ボケ仙人”の妄執に近い。カミさんをペテンに掛けるなんて、荘子サマも一般庶民となんら変わりないじゃないか。無為自然とは言うが、これでは故意偽善だろうに。
はしたないことこの上なく、たしかに行儀が悪過ぎる。とはいえ庶民基準では、「善良な風俗に害を及ぼす」とまで断言できるほどに過激でもハチャメチャでもなさそうだ。
第六劇場で飽き飽きするほど見せてもらった「大劈棺」から受けた印象では、たしかに「淫蕩、残忍、善良な風俗に害を及ぼす」と言えないこともない場面も見られるが、芝居としての全体構成は公権力が目くじらを立て禁戯措置を施す程のことはなかった。
にもかかわらず大陸(共産党政権)でも台湾(国民党政権)でも、長年に亘って公演を禁止した。なぜ、この演目を演じてはいけないのか。単純に考えれば、民衆とは本来が「淫蕩、残忍、善良な風俗に害を及ぼす」ことを好むからに違いない。
毛沢東が掲げた「為人民服務」にしても、蔣介石が無理矢理デッチ上げた「自由中国」「大陸反攻」にしても、たしかに誰もが否定しようのない“正しい考え”ではある。だが誰にも否定できそうにない正しさは、じつは誰にも実現・実行できないのだ。ウソ臭い、いやウソそのものになる。
だが、そのウソをウソと認めてしまったら独裁体制は動揺を来たし、最悪の場合には崩壊してしまう。だから大陸であれ台湾であれ、独裁権力はウソを国民に強い、国民は四六時中、そのウソをウソと知りながら、ウソと公言できないままに生きなければならなかった。誰もが望まず、また出来もしない謹厳実直な生活を生涯求められる。かくて不満が鬱積した国民は、時に息抜きをしたくなる。
そこで舞台の上の絵空事の世界を喜び迎え、しばしの間でも現実を忘れ、憂さ晴らしを試みる。おそらく大部分の人々は「為人民服務」「自由中国」「大陸反攻」よりは、「淫蕩、残忍、善良な風俗に害を及ぼす」芝居に心のモヤモヤを晴らしたに違いない。「贅沢は敵」と言われるほどに、やはり「贅沢はス敵」となるはず。これが極く自然な人間心理だろう。
「大劈棺」を別の視点から考えると、無為自然などと宣わったところで、しょせんは荘子サマも人間だ。妻の浮気を疑って幻術を使おうなどと、無為自然が聞いて呆れる。我われ庶民と何処が違う。同じじゃないか。妻の不貞を暴いたと鬼の首でも取ったかのような振る舞いは、とてもじゃないが見てられない。無為自然の高尚哲学と違いすぎる。なにが荘子だ。オツに構えてんじゃねえヨ――といった庶民の偽らざる心情が現れている。第六劇場で見慣れた「大劈棺」から、こんな庶民のホンネを感じ取ったものだが。
いったい古典演目は、現在の演劇作品のように作者や演出家を特定出来るものは極めて稀である。名もない戯作者が種本に基づいて劇本(脚本)を書く。それを下敷きに役者が自分なりの解釈を下し、工夫を重ねて舞台に掛ける。
客の好みの背後には政治があり社会がある。政治なり社会の動きが客に影響を与えることから、舞台を重ねる中で、客の好みに応じて芝居は改作される。つまり時間の経過の中で芝居内容が時代の風潮や客の好みに沿うように手直しされ、人間の本質を描き出し、演出・演技が彫琢され、後世に伝えられる。古典はそういうものだろう。
「大劈棺」における荘子の振る舞いはムチャクチャ(乱)でありデタラメ(妄)の極み。だが、そのムチャクチャとデタラメこそが民衆に好まれるところであり、民衆にとっての活力の源だ。「胡蝶の夢」が説く哲学的命題を種本にして荒唐無稽な「大劈棺」が創られた。その荒唐無稽さの中に、荒唐無稽なりの“真実”が秘められている・・・ような。《QED》